唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

興元元年 西暦784年 2

2020-03-14 10:00:04 | Weblog
二月、希烈に降っていた滑州刺史李澄は形勢を見て唐朝に通じてきた。
 旧永平将である。汴州の陥落をみて希烈に降っていた。

二月、希烈は寧陵を包囲したが、浙江韓滉軍が来援して撃退された。

二月甲子,李懷光為太尉,懷光反。
 懷光は朱泚と通行し逗留し、京師回復をしようとしなかった。德宗は懷光を疑
 ったが、宥めるために最高官の太尉を授け、鉄券を交付した。逡巡していた懷
 光は猜疑されていることを知り反発して反乱した。

二月丁卯,德宗梁州へ。懷光將がこれを追う。
 德宗は奉天から山西の梁州[節度使嚴震]へ逃走し、最終的には劍南成都へ逃
 れるつもりであった。懷光はこれを捕らえようとしたが、麾下の将が逡巡した
 ため逃れることができた。

三月,李懷光奪鄜坊京畿金商節度使李建徽、神策軍兵馬使陽惠元兵,惠元死之。
 懷光ははっきりと反旗を翻し、麾下の唐朝兵を奪い陽惠元等を殺した。李晟は
 いち早く警戒していたため自立することができた。

三月癸酉,魏博兵馬使田緒殺其節度使田悅。自稱留後。
 魏博田悦は唐朝に歸附することになり、宣慰使と協議していた。疲弊した牙軍
 もまたそれを求めていたが、承嗣の子緒[素行が悪く、悦に嫌われていた]は
 殺人を犯し、咎められるのを怖れて悅を襲撃して殺し、自党を集めて自立した。
 牙軍は不信ではあったが、内乱を怖れて継承を認めた。朱泚は一時的に喜んだ
 が、結局緒もまた牙軍の意向を受けて唐朝に歸附することになり、唐朝も追認
 した。

三月甲戌,李懷光殺左廂兵馬使張名振、右武鋒兵馬使石演芬。
 懷光の反乱は、唐朝親衛を自任する朔方軍將士には納得できないものであった。
 懷光は反抗する名振や演芬を殺してなんとか抑え込んだが、離脱して李晟に奔る
 將士も多く、本拠の河中府に撤退することになった。

三月丁亥,李晟為京畿渭北鄜坊丹延節度招討使。
 李晟が朱泚が拠る京師回復の担当となった。