唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

建中二年 西暦781年 3

2020-03-06 10:04:58 | Weblog
十月乙未,楊炎は貶崖州司馬へ左遷され途次殺された。
 盧杞は陰険であり敵は徹底的に排除した。

十月戊申,李納將李洧以徐州降。
 洧は正己の從父兄で徐州を任されていたが、納を軽んじていて、沂州・海州の
 諸将と共謀して徐海沂三州觀察使となろうとし、唐朝に帰属しようとした。
 ところが宰相張鎰に斡旋を頼んだため、盧杞に憎まれ徐州のみを管轄とされた。
 徐州は江淮から汴州・東都への漕運の要地であり、唐朝にとってこれを得られた
 ことは大きかった。

十一月辛酉,納寇徐州,宣武軍節度使劉洽敗之於七裏溝。
 当然納は怒り、魏博軍の支援を受けて徐州を猛攻した。徐州を失うことはできな
 い唐朝軍は朔方・永平・宣武軍を支援させ撃退した。功績は朔方將唐朝臣が最も
 大きかったが、公式には最上位の劉洽の勝利となっている。

十一月丁丑,河東馬燧及田悅戰於雙岡,敗之。

十一月甲申,李納將王涉以海州降。十二月丁酉,馬萬通以密州降。
 李洧と共謀し淮南陳少游の支援を得て納に反旗を翻した。納は危機に追い込まれた。

建中二年の戦役は唐朝の優勢が続いた。
 成德は李惟岳が継承したが、多くの諸将は狐疑逡巡しており積極的な攻勢はで
 きない。幽州の南下をうけ、易州張孝忠の反もあり防戦一方である。
 幽州朱滔は成德攻撃の主導権をとろうとし、特に深州を得ようとしている。
 魏博田悦は積極的に成德・淄青を支援しているが、戦闘は下手である。
 淄青李納は自立したがまだ内部掌握ができず苦闘している。
 淮西李希烈は恩賞に不満で反意を抱いている。
 河東馬燧・昭義李抱眞の間はしっくりいっていないが、対魏博戦では協調して
 いる。朔方李懷光や李晟も応援にきている。
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