唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

興元元年 西暦784年 1

2020-03-13 10:06:34 | Weblog
正月癸酉,德宗は自分の非を認め、大赦し、朱滔、李希烈、田悅、王武俊、李納を赦した。
 自分の遣り方が間違っていた。そこで皇帝を称した朱泚以外は赦免するという
 内容である。

 [諸鎮の大赦への態度]
  魏博田悦 停戦を最も渇望していたので幸いとばかり滔を裏切り歸順。
   しかし滔の報復を覚悟しなければいけなかった。
  成德王武俊 旧成徳のうち鎭冀深趙徳棣六州が与えられるというので、
   もう戦う理由がなかった。かえって深州を狙い脅威となる滔が敵となった。
  淄青李納 徐州を除く旧領が保証されるなら戦う理由はなかった。
  幽州朱滔 兄の泚と連合し、天下を狙い、河北に覇を唱えたい滔は従わず、
   魏博・成德の裏切りを怒り、回紇を誘いこんで希烈とともに東都を狙い南
   下攻勢をとった。
  淮西李希烈 汴州を陥し絶好調の今、停戦する理由などなかった。
  河東馬燧・昭義李抱眞・義武張孝忠 不利な体勢から当面の敵が朱滔だけに
   なり、立て直しに入った。
  朔方李懷光 大功績を上げたにもかかわらず、德宗周辺に疑われ不満がつの
   っていた。德宗は頑固・小心・猜疑心が強くプライドも高かったため。粗
   野な武臣を嫌っていた。
  朱泚 懷光との敗戦が響き、京師に籠もる状態であった。

正月、希烈將杜少誠攻壽州、克てず。
 希烈の勢いを怖れた淮南節度使陳少游は内応しようとしたが、壽州刺史張建封
 は従わず、淮西軍を撃退した。唐朝は建封を濠壽廬三州都團練使として防衛さ
 せた。少誠は南下して蘄黄州を攻めたが、江西將伊愼に永安で大敗した。

正月、希烈將董侍募は鄂州李兼を襲うが敗北した。
 希烈の南下策は江西曹王皋、李兼などに遮られ、唐朝の財源地帯である江淮は
 奪えなかった。

正月丁丑,朱滔は大軍を率いて南下し、魏博の裏切りを怒り、宗城、經城,冠氏等
を陥し魏州に迫った。

正月戊戌,劉洽が汴滑宋亳都統副使知都統事となる。
 汴州より敗走した永平節度李勉は軍權を軍人劉洽に譲った。

正月、吐蕃尚結贊が京城回復の援兵を申し出た。

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