唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

武寧軍節度徐泗濠観察處置節度使(感化軍節度)と軍乱

2014-10-09 15:31:32 | Weblog
強大な反朝廷系の淄青平盧軍節度使に対置し、淮南浙江よりの漕運の重要基点の徐州に位置する徐泗濠節度使は、もともと
淄青李納の叔父徐州刺史洧が歸順して成立したものだが、宰相李泌の建議により有能な壽州張建封に濠・泗州を付けて強化
したものだ。臨戦体制が常に維持されたために兵は強く、驕慢である。将帥が有能であれば働くが、文官等では制置すること
困難であった。何度も解体されたが必要のある藩鎮であるので再建された。

①.貞元16年(800)5月張建封卒、子の愔が自立
 朝廷は韋夏卿を後任としたが入れず、淮南杜佑に伐たせたが敗北した。そのため泗濠二州を取り上げて徐州のみを愔に
与えた。愔は元和元年まで統治したが奉還し、東都留守王紹を後任となり、泗濠二州が戻され牙軍は喜んで受け入れた。

②.長慶2年(822)3月武寧軍節度副使王智興逐其節度使崔羣
武寧軍は李愿・李愬に率いられ淄青李師道討伐に活躍したが、淄青が解体されると元宰相の崔羣が赴任した。しかし成
王廷湊が乱し兵乱が続くと武官の王智興が台頭し、羣を逐って自立した。軟弱な穆宗朝廷は漕運を脅かされこれを認めざ
る得なかった。だが智興の牙軍內の立場は弱体で有り、軍士を優待するとともに、宣武李介の自立を討伐したり、横海
李全略を征討するなど朝廷へのすりよりも忘れなかった。

③.大和3年(829)2月捉生兵馬使石雄を壁州刺史に推す。
牙軍內に智興を逐い、石雄を擁立するという気運が高まり、畏れた智興は朝廷に雄を刺史として出すことを求め、その赴
任後与党を誅殺した。さらに雄を殺すことを求めたが朝廷は勇を惜しんで流罪とした。雄はやがて起用され會昌年間昭義
劉稹の討伐に活躍した。大和6年智興は帰順した。

④.大和6年(832)3月新節度使李聴辞退
智興が忠武へ転任し、邠寧節度使李聴(晟の子)が転任したが、牙軍の強暴を畏れて辞退した。やむをえず文官の前忠
武節度使高瑀が赴任したが制することが出来ず、大和7年崔珙が代わりなんとか抑制することができた。

⑤.大中3年(849)5月徐州軍亂,逐節度使李廓。
李廓(宰相程の子)は牙軍を統制できず逐われた。後任の義成節度使盧弘止は都虞候胡慶方を誅して
これを抑えたが、銀刀軍(牙軍)の横暴はやまなかった。

⑥. 大中13年(859)4月武寧節度使康季榮不恤士卒,士卒噪而逐之。
武官の康季榮は牙軍に強く対応したため逐われた。後任の左金吾大將軍田牟は牙軍に徹底して迎合しなんとか勤め上げ
ることが出来た。

⑦.咸通3年(862)7月武寧軍亂,逐其節度使溫璋。
田牟没後、厳正な文官温璋が赴任することを聞いた牙軍は、これを忌避して排除したもので、朝廷は温璋に罪はないとし
て転任させた。

⑧.咸通3年(862)8月新節度使王式、誅牙軍、廃武寧軍節度使
浙東の仇甫の乱を鎮圧した王式(播の子)はその軍を率いて赴任し、武寧牙軍を誅殺した。そして武寧軍節度を解体し、
徐州には団練使を置いた。しかし牙軍の与党は地方に潜伏し盗賊となった。

⑨.咸通9年(868)7月武寧軍節度糧料判官龐勳反于桂州 ~10年9月
解体した牙軍残党が各地で跳梁したため、朝廷は徴募して対雲南蠻対策として嶺西や安南に派遣した。しかし観察使
崔彥曾は交替費用を惜しみ期限を無視して長期残留させたため、龐勳を中心として反乱し徐州に戻った。やがて徐州
周辺の賊や農民を巻き込み使府を陥し、周辺州を攻略した。朝廷は康承訓を將として大軍を送りやっと鎮圧したが、
賊は周辺に散り、やがて王仙芝・黄巣達の基礎となった。

⑩.中和元年(881)8月感化軍將時溥逐其節度使支詳,自稱留後。
黄巣討伐に派遣されることになった牙將時溥、陳璠は反して時溥を逐い、殺した。これより徐州は朝廷の統制をはず
れた。時溥は黄巣・秦宗權討伐には協力した。
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