寶應元年[762]七月
李輔國が失脚した後、觀軍容使朝恩は封馮翊郡公となった。
十月
雍王が元帥として史朝義征討に赴いた。代宗は副元帥を郭子儀にするつもりだったが、朝恩は反対して僕固懷恩が副元帥になった。
神策觀軍容使朝恩は後備として陝州に留まった。
その後東都で射生軍を率いて朝義軍と力戦した。
寶應二年[763]六月
軍を率いて陝州より京師に入った。
七月
實封200戸と一子に五品官を与えられた。
廣德元年[763]十月
吐蕃の侵攻により代宗皇帝は京師を棄てて華州に逃亡した。
朝恩は神策軍を率いて陝州より来援し代宗を保護した。
朝恩の部將皇甫温が陝州刺史、周智光が華州刺史となった。
十二月
朝恩は天下觀軍容宣慰處置使として禁兵を掌握し、鄠縣や中渭橋に築城して吐蕃に備えた。
宦官駱奉仙を鄠縣築城使として守らせた。
永泰元年[765]九月
吐蕃回紇が大挙侵攻し、代宗は再び逃亡しようとした。朝恩は馬を徴発し、民を徴兵しようとしたため騒動が起きた。
群臣に河中への逃亡を提案したがかえって弾劾され中止した。
永泰二年[766]二月
朝恩は自分は学問ができると思っていたので、宰相達と国子監の講義を聴講し「私の才は文武を兼ねている」と自称した。
そして国子監の儀式に口を出すことが多かった。
八月
内侍監.判國子監事充鴻臚禮賓等使となり、鄭國公に進んだ。国子監=大学の長となったのである。
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