廣德元年[763]十月
まったく防御態勢のない京師はたちまち陥落し、程元振は代宗を擁して華州に逃亡した。
各地の諸将に来援を命令したが誰も動こうとはしなかった。
代宗はあわてて郭子儀を副元帥としたが、部下が散逸している子儀はいかんともできなかった。
しかも元振は増兵を求める子儀が代宗に自分を弾劾されるのを懼れて拝謁させなかった。
京師を捨てた代宗達は宦官魚朝恩が率いる華州神策軍に収容された。
吐蕃は京師を掠奪すると、占領する気はなく撤退し、郭子儀は各地の兵を集めて回復した。
元振は元帥行軍司馬を解任され、宰相元載が判元帥行軍司馬となった。
太常博士柳伉が官僚を代表して元振を弾劾し極刑を求めた。しかし元振の諸将弾圧策は代宗の政策でもあったので厳しい処分ができず、官職を免じて郷里に帰らす事に止めた。
魚朝恩は代宗を奉じて京師に入り、以降 郭子儀.元載.魚朝恩の三頭体制ができあがった。
廣德元年十二月
責任を感じていない元振は郷里から女装して京師に戻り、自党の司農卿陳景銓の邸宅に隠れ、代宗に再任用を願ったが捕縛された。
廣徳二年[764]正月
御史台は元振を僻地の?州へ配流すると決定したが、代宗はなおも庇って江陵府に安置するだけにした。
しかし怨みを持つ者に殺された。
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