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李輔國
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本名は靜忠。
宮刑を受けて閑廄小兒となりました。容貌はさえなかったようです。
一応は学問を学び,高力士の部下として仕えていました。
閑廐使王鉷のもとでは育馬の成績を上げて、皇太子附きに進みました。
表面は恭謹寡言てすが、内心は狡險でした。
天寶十五年七月、玄宗は逃亡し馬嵬驛につきましたが、將士は飢えと疲れから反乱し、宰相楊国忠を殺そうとしました。皇太子附きの宦官李輔國は太子に報告し、国忠を誅して主導権をとるように勧めますが、柔弱な太子は決断できませんでした。
事変後、太子は玄宗を追行していましたが、父老に遮られ、關内に残ってくれと請願されました。太子はやはり決断できなかったのですが、子の建寧王倓と輔國が強硬に勧めて残存する朔方軍へ向うことになりました。その後、太子家令.判元帥府行軍司馬となり皇太子側近で軍事を掌り活躍しました。
そして「護國」と改名し、その後「輔國」に変えました。
鋭意仕事をし殿中監に昇格しました。そして閑廄五坊宮苑營田栽接總監使,兼隴右群牧京畿鑄錢長春宮等使,少府殿中二監という多くの実務職を兼ねて実権を握ります。
至德元年十二月
京師回復の功績により封成國公.實封五百戸になりました。
張良娣[太子の側室、後に皇后]と輔國は連携し、肅宗を操作しようとし、建寧王や邪魔な謀臣李泌を追いはらおうとしました。
至德二年正月、輔國は建寧王を讒言して殺させ。泌は懼れて避退しました。
至德二年九月、肅宗は京師を回復するとまた泌を呼び寄せ宰相にしようとしましたが、泌は輔國を懼れて固辞しました。
乾元元年二月、輔國は寵姫張淑妃と結託し、殿中監より太僕卿を兼任し判元帥府行軍司馬となって軍權を掌握しました。
乾元二年三月
京師に盗賊が多く、輔國は金吾軍に代わって麾下の禁軍の羽林軍を巡回させることを提案しましたが、宰相に止められました。
乾元二年四月
太子詹事として軍權・制勅を握り、宰相李揆は従属していましたが、新任の宰相李峴はその専権を弾劾しました。輔國は制勅権を返上し、行軍司馬を辞めるという擬態を示しました。
乾元二年五月
輔國は朋党と誣告して反撃し宰相李峴を解任させました。
乾元三年四月
襄州將張維瑾、曹玠等が節度使史翽を殺して反しました。隴州刺史韋倫を節度使として討たせることになりましたが、倫が輔國に登用の礼に来ないので急遽解任し、秦州防御使に左遷しました。
上元元年六月
李輔國は目障りな玄宗とその側近達[卑賤な時代の自分を熟知し軽んじている、恩を受けているために頭が上がらない]を排除しようとし、病中の肅宗の命令と称して武力で玄宗を幽閉しました。そして高力士や陳玄禮を排除し配流しました。本当は輔國が肅宗の希望[小心なため父玄宗に脅えている]を代行したのかもしれません。側近を奪われ玄宗は鬱々として病となりました。
上元二年八月,輔國は開府儀同三司兵部尚書となりました。さらに宰相となることを求め、裴冕等に推薦させましたが、宰相蕭華が「宦官を宰相にできない」と拒否、内心嫌がっていた肅宗もそれを認めました。当然輔國は憤慨しました。
元年建辰月、輔國は肅宗を恫喝して宰相蕭華を罷免させ、自派の戸部侍郎元載を宰相としました。
寶應元年建巳月、肅宗は重病になり、張皇后と輔國は権限を争いました。張皇后は輔國を除くため皇太子[代宗]と結ぼうとしますが、太子は逃げます。そこで兵馬元帥越王係と結びます。それを知った宦官程元振は輔國に密告し、輔國は兵を率いて張皇后・越王等を殺害しました。そして肅宗が死ぬと皇太子を擁立し即位させました。
驕った輔國は代宗に「帝はただ禁中にいるだけでよい、政治は私が行います」と言い放ちました。そして三公の司空、尚父と称し、實封八百戸。念願の宰相である中書令となり専権を振るうようになりました。
寶應元年六月
宦官程元振は代宗皇帝の不満を知り、上司の輔國を陥れようと企み、突然輔國の行軍司馬及兵部尚書を解任させ、自分が兵権をにぎりました。また輔國を宮中から追い出しました。
輔國は中書令も解任され、博陸郡王という虚名を与えられ、「もう私は不要なのでしょう、先帝に地下でお仕えします」と嘆くだけだけでした。
寶應元年十月、代宗は輔國を暗殺させました。首と手を切断させ宮中の便所に投げ入れさせ、そして形式的に捜査させ、「木首」を贈り葬儀させ、太傅の位を贈りました。
[次回は 董秀 です]
李輔國
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本名は靜忠。
宮刑を受けて閑廄小兒となりました。容貌はさえなかったようです。
一応は学問を学び,高力士の部下として仕えていました。
閑廐使王鉷のもとでは育馬の成績を上げて、皇太子附きに進みました。
表面は恭謹寡言てすが、内心は狡險でした。
天寶十五年七月、玄宗は逃亡し馬嵬驛につきましたが、將士は飢えと疲れから反乱し、宰相楊国忠を殺そうとしました。皇太子附きの宦官李輔國は太子に報告し、国忠を誅して主導権をとるように勧めますが、柔弱な太子は決断できませんでした。
事変後、太子は玄宗を追行していましたが、父老に遮られ、關内に残ってくれと請願されました。太子はやはり決断できなかったのですが、子の建寧王倓と輔國が強硬に勧めて残存する朔方軍へ向うことになりました。その後、太子家令.判元帥府行軍司馬となり皇太子側近で軍事を掌り活躍しました。
そして「護國」と改名し、その後「輔國」に変えました。
鋭意仕事をし殿中監に昇格しました。そして閑廄五坊宮苑營田栽接總監使,兼隴右群牧京畿鑄錢長春宮等使,少府殿中二監という多くの実務職を兼ねて実権を握ります。
至德元年十二月
京師回復の功績により封成國公.實封五百戸になりました。
張良娣[太子の側室、後に皇后]と輔國は連携し、肅宗を操作しようとし、建寧王や邪魔な謀臣李泌を追いはらおうとしました。
至德二年正月、輔國は建寧王を讒言して殺させ。泌は懼れて避退しました。
至德二年九月、肅宗は京師を回復するとまた泌を呼び寄せ宰相にしようとしましたが、泌は輔國を懼れて固辞しました。
乾元元年二月、輔國は寵姫張淑妃と結託し、殿中監より太僕卿を兼任し判元帥府行軍司馬となって軍權を掌握しました。
乾元二年三月
京師に盗賊が多く、輔國は金吾軍に代わって麾下の禁軍の羽林軍を巡回させることを提案しましたが、宰相に止められました。
乾元二年四月
太子詹事として軍權・制勅を握り、宰相李揆は従属していましたが、新任の宰相李峴はその専権を弾劾しました。輔國は制勅権を返上し、行軍司馬を辞めるという擬態を示しました。
乾元二年五月
輔國は朋党と誣告して反撃し宰相李峴を解任させました。
乾元三年四月
襄州將張維瑾、曹玠等が節度使史翽を殺して反しました。隴州刺史韋倫を節度使として討たせることになりましたが、倫が輔國に登用の礼に来ないので急遽解任し、秦州防御使に左遷しました。
上元元年六月
李輔國は目障りな玄宗とその側近達[卑賤な時代の自分を熟知し軽んじている、恩を受けているために頭が上がらない]を排除しようとし、病中の肅宗の命令と称して武力で玄宗を幽閉しました。そして高力士や陳玄禮を排除し配流しました。本当は輔國が肅宗の希望[小心なため父玄宗に脅えている]を代行したのかもしれません。側近を奪われ玄宗は鬱々として病となりました。
上元二年八月,輔國は開府儀同三司兵部尚書となりました。さらに宰相となることを求め、裴冕等に推薦させましたが、宰相蕭華が「宦官を宰相にできない」と拒否、内心嫌がっていた肅宗もそれを認めました。当然輔國は憤慨しました。
元年建辰月、輔國は肅宗を恫喝して宰相蕭華を罷免させ、自派の戸部侍郎元載を宰相としました。
寶應元年建巳月、肅宗は重病になり、張皇后と輔國は権限を争いました。張皇后は輔國を除くため皇太子[代宗]と結ぼうとしますが、太子は逃げます。そこで兵馬元帥越王係と結びます。それを知った宦官程元振は輔國に密告し、輔國は兵を率いて張皇后・越王等を殺害しました。そして肅宗が死ぬと皇太子を擁立し即位させました。
驕った輔國は代宗に「帝はただ禁中にいるだけでよい、政治は私が行います」と言い放ちました。そして三公の司空、尚父と称し、實封八百戸。念願の宰相である中書令となり専権を振るうようになりました。
寶應元年六月
宦官程元振は代宗皇帝の不満を知り、上司の輔國を陥れようと企み、突然輔國の行軍司馬及兵部尚書を解任させ、自分が兵権をにぎりました。また輔國を宮中から追い出しました。
輔國は中書令も解任され、博陸郡王という虚名を与えられ、「もう私は不要なのでしょう、先帝に地下でお仕えします」と嘆くだけだけでした。
寶應元年十月、代宗は輔國を暗殺させました。首と手を切断させ宮中の便所に投げ入れさせ、そして形式的に捜査させ、「木首」を贈り葬儀させ、太傅の位を贈りました。
[次回は 董秀 です]
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