二月丁卯,凡庸な宰相鄭絪が解任されて閑職の太子賓客となり、強硬派の李籓に代わった。
元和四年三月
乙酉,河東節度使嚴綬を左僕射とし、鳳翔節度使李鄘と交代させた。
長期間在任して宦官に頤使されていた綬を、文官強硬派の李鄘に交代させた。河東は昭義節度使
と並び河北収復への策源地である。
三月乙酉,成德軍節度使王士真が卒し、子の承宗が自立した。
士真は父武俊(朱滔を破る大功があり、中書令になった)が卒したとき、既に徳棣觀察使として
任用されていて、その継承は当然であった。しかも士真は堅実に統治し唐朝にも融和的であった
ので在職中はゆるぎなかった。しかし強硬派が主流となり、西川・浙西問題も解決した唐朝は承
宗への継承をなかなか承認しようとはしなかった。
閏三月丁卯,憲宗長子の鄧王寧を皇太子とした。
寧は即位できず元和六年十二月に卒した。賢愚は不明。
閏三月辛未,帰服してきた勇猛な沙陀族を河東軍に配属した。
沙陀は突厥の一族でその崩壊後、吐蕃に帰属していたが、勇猛なため常に先陣に酷使されることに
不満を持ち、途次多くの犠牲を払いながらも唐朝に亡命してきた。この配属により河東騎兵軍は飛
躍的に強化された。唐末 李國昌・克用などが活躍し五代の「後唐」の基になった。
元和四年三月
乙酉,河東節度使嚴綬を左僕射とし、鳳翔節度使李鄘と交代させた。
長期間在任して宦官に頤使されていた綬を、文官強硬派の李鄘に交代させた。河東は昭義節度使
と並び河北収復への策源地である。
三月乙酉,成德軍節度使王士真が卒し、子の承宗が自立した。
士真は父武俊(朱滔を破る大功があり、中書令になった)が卒したとき、既に徳棣觀察使として
任用されていて、その継承は当然であった。しかも士真は堅実に統治し唐朝にも融和的であった
ので在職中はゆるぎなかった。しかし強硬派が主流となり、西川・浙西問題も解決した唐朝は承
宗への継承をなかなか承認しようとはしなかった。
閏三月丁卯,憲宗長子の鄧王寧を皇太子とした。
寧は即位できず元和六年十二月に卒した。賢愚は不明。
閏三月辛未,帰服してきた勇猛な沙陀族を河東軍に配属した。
沙陀は突厥の一族でその崩壊後、吐蕃に帰属していたが、勇猛なため常に先陣に酷使されることに
不満を持ち、途次多くの犠牲を払いながらも唐朝に亡命してきた。この配属により河東騎兵軍は飛
躍的に強化された。唐末 李國昌・克用などが活躍し五代の「後唐」の基になった。
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