唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

唐宦官伝 竇文場

2025-01-05 18:11:59 | Weblog

文場については建中四年[783]に初めて記事が現れるまで出身も前歴もすべて不明だが、
德宗が皇太子時代に霍仙鳴とともに近侍していたことは間違いない。

德宗は即位すると藩鎭圧迫政策を発動し、山東梁崇義・成德李惟岳を亡ぼし、魏博田悦・淄青李納を追いつめた。
しかし幽州留後朱滔・恒冀觀察使王武俊が反し、長期戦となって財政が破綻していった。そして動員された涇原軍が冷遇に憤激してその帥姚令言を擁して乱し京師を寇掠した。
德宗は京師を棄てて近臣のみと奉天城に奔った。
涇原軍は京師にいた前鳳翔隴右節度使[幽州節度使]朱泚を擁立した。
麾下を引き連れて入朝していた泚は、關内諸軍に旧麾下達を持ち、その寛容さから多くの軍人の人気を得ていた。
そのためたちまち大きな勢力となり、德宗が籠城する奉天城を厳しく攻囲した。

代宗は輔國・朝恩ら宦官の禁軍掌握にこりて、武将達に禁軍を管轄させていた。
德宗もその方針を継続して武将白志貞に統轄させていたが、私腹をこやすために神策軍の職を市人に販売し、いざ奉天逃亡となると誰も招集に応ぜず。
近臣の宦官以外はほとんど随行するものがなかった。
そのため德宗は文場など子飼いの宦官に依拠するようになっていった。

興元元年[784]德宗は京師に復帰すると、親衛の神策軍を左右兩廂に分割し、竇文場と霍仙鳴を監神策軍左右廂兵馬使として監察させた。

貞元八年[792]左神策大將軍柏良器等はまた神策軍職を商人に売却しはじめた。監軍の文場は弾劾し良器等を逐い、権力を強めた。

十二年[796]六月,德宗は神策軍に護軍中尉を置き左軍を竇文場、右軍を霍仙鳴に担当させた。護軍中尉は監軍ではなく司令官である。
これにより宦官が兵権をにぎるようになり皇帝権衰亡へと進むようになった。

關内諸軍使・節度使は神策軍から派遣されるようになり文場達の権限は増大した。
河東行軍司馬李景略は威望があり、交代を懼れた節度使李說は文場に依頼し、豐州に天德軍防禦使を新設させ景略を任じた。

十四年[798]霍仙鳴は卒し、第五守亮が継いだ。

十六年[800]淮西呉少誠が反したが、征討軍は統制がとれず大軍であるにもかかわらず敗退した。そこで総指揮を置くことになり、文場は親任する夏綏節度使韓全義を推薦した。

しかし全義は勇猛であったが將才なく、監軍の宦官達に媚びて右顧左眄し、少数の淮西軍に連敗し敗走を重ねた。

十七年[801]正月
連勝する淮西呉少誠であったが財政的には困窮し、有利な情勢を保ったまま和約を求めた。
文場は自分の失態を隠すため德宗に敗勢を隠して、少誠が歸順を求めていると上奏した。
すでに老耄していた德宗はそれを認めた。
さすがに全義は恥じて入朝せず夏州に戻った。
皇太子[順宗]や群臣はその実態を知っていたが、文場の威勢に従うしかなかった。

文場は驃騎大將軍にまで昇進したが、朝廷内の悪評を感じとり、
九月、德宗の寿命があるうちに致仕し、副使楊志廉に中尉を譲った。

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