唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

成德 王武俊の乱

2023-01-17 08:44:04 | Weblog
武俊は契丹人で李寶臣に仕えていました。勇猛果敢でしたが、軍内での地位はさして高くないため、かえって寶臣に愛され、娘を子の士眞に与えていました。寶臣が卒すると、諸将は動揺し、張孝忠や康日知は唐朝に付き、河東・昭義・幽州軍が侵攻してきました。惟岳は武俊も疑っていましたが、やむをえず趙州[康日知]を伐たせました。

建中3年閏正月
出陣した武俊は反旗を翻し、士眞と呼応して惟岳を誅しました。

建中3年2月
朝廷は恩賞として武俊を恆州刺史恆冀都團練觀察使としました。恒州と冀州は趙州で分離され、張孝忠が易定節度使となったのはともかく、軽んじていた深趙都團練觀察使康日知と同格というのは極めて不満でした。武俊としては孝忠領以外を領して成德節度使になるのが望みでした。

建中3年4月
そこで同じく恩賞に不満な幽州朱滔、敗北して危機に瀕した魏博田悅と通じ趙州を攻めました。
張孝忠と康日知は唐朝方です。

建中3年5月
武俊はみずから包囲されていた魏州田悅を救援しました。

建中3年6月
武俊・朱滔・田悅連合軍は、朔方李懷光・河東馬燧・昭義李抱眞・河陽李芃等の唐軍を連篋山で大破しました。
魏州の包囲は解け、唐軍は退却しました。武俊は追撃を主張しましたが滔は同じませんでした。

建中3年7月
連合軍は唐軍と永濟渠を挟み対峙しました。

建中3年11月
朱滔等は王号を称し、武俊は趙王となり、滔を盟主としました。

武俊は元同輩の兵馬使衛常寧を謀反したとして殺しました。

將張終葵に趙州を攻めさせましたが、日知に撃退されました。

建中3年12月
対陣が続き、軍糧を供給する田悅は負担に苦しんでいます。

建中4年6月
専権を示す朱滔との仲がわるくなって来ました。それを見透かして昭義李抱眞が帰朝の働きかけをしてきました。
武俊は成德領が保証されるならという態度でした。

建中4年10月
朱泚の乱が起き、德宗皇帝は京師を捨てて奉天城に籠城しました。それに乗じて田悅は武俊等に臨洺を攻撃しようと誘いましたが、抱眞は自領を確保するのが先だと説き、応じた武俊は趙州に向かいました。

元々叛心は強くない武俊は抱眞の誘いに傾き帰朝を考えるようになりました。

武俊は回紇騎兵を誘致していましたが、朱滔はこれを麾下に加えました。

建中4年11月
武俊は幽州将馬寔と趙州を攻めましたが勝てず、恆州に戻りました。

建中4年12月
德宗皇帝は武俊等に使者を送り、領域・官爵を保証するので帰朝するように促しました。

朱滔は武俊・田悅軍とともに回紇を含む大軍をもって黄河を渡り、李希烈が攻撃している汴州に向かおうとしました[汴州はこの月に希烈が取りました]。
疲弊している魏博田悅は逆らうことが出来ず渋々同意しました。武俊は昭義・河東軍を防ぐとして参戦していません。

興元元年正月
德宗皇帝は赦令を発し、武俊・田悅・李納はそれに従い、王号を捨て、それぞれ節度使に任ぜられ、所領を認められました。朱泚・朱滔・李希烈だけが反乱を続けます。

王武俊は恆冀深趙節度使となりました。

滔軍は武俊領を通過して魏博に入りました。両者はまだ態度をしめさず供軍しています。

しかし永濟に至ると、田悅が会同しないことを知り、激怒して魏博領州を寇掠し魏州を攻囲しました。

興元元年2月
武俊は平章事兼幽州節度使となり朱滔を伐つことを命ぜられました。

武俊・抱眞は魏博の貝州救援に進みました。

興元元年3月
魏博田悅が甥の緒に殺害され、緒の去就が不明なため逗留しました。その後緒も帰朝することになりました。

興元元年5月
武俊・抱眞軍は經城に滔軍を大破し、滔は占領地を捨てて幽州に敗走しました。

武俊は恒州に戻り幽州節度使の兼任を辞しました。


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