天祐二年[905]
◎.正月 朱全忠軍は壽州に迫ったが取れず、2月に戻った。
◎.正月 將王茂章が潤州を陥し、安仁義が敗死した。
◎.正月 錢鏐軍が睦州を攻めたが敗北した。
◎.2月 劉存は鄂州を陥し、杜洪は殺された。存が鄂岳観察使となった。
◎.4月 將陶雅が衢、睦兵と錢鏐麾下の婺州を攻めた。
◎.8月 全忠は山東趙匡凝が行密と連携したことを怒り、將楊師厚に唐、鄧、復、郢、隨、均、房七州を陥させた。9月 匡凝は敗れて淮南へ奔った。
◎.11月 將陶雅、陳璋は婺州を陥し、雅を江南都招討使,歙婺衢睦觀察使とした。濠州團練使劉金が卒し、子の仁規を知濠州とした。
◎. 楊行密は重病となり、長子の宣州觀察使楊渥を召還した。渥は軽薄で人望がないため、軍府の属僚は危ぶんだが、左右牙指揮使徐温、張顥等は渥への継承を薦めた。潤州團練使王茂章が代わって宣州觀察使となった。
◎.10月 山東・荊南を平定した全忠は、さらに淮南北部へ侵攻したが、光州・壽州攻撃には失敗し、11月に帰還した。
◎. 揚州に戻った楊渥が淮南節度留後に自立した。
◎.11月. 呉武忠王楊行密が薨じた。宣諭使李儼は楊渥を淮南節度使東南諸道行營都統兼侍中弘農郡王にした。すでに唐朝は朱全忠の支配下にあるのでこのような決定は自作である。
◎.12月 陳詢は睦州を棄てて逃げ、淮南招討使陶雅が代行した。
◎. 無能な渥はさっそく騒動を起こし、宣州時代の側近部下を取り戻そうとした。觀察使王茂章は応じなかったので、渥は馬步都指揮使李簡に追討させた。
◎. 湖南馬殷軍が行密の死に乗じて侵攻してきたが、牙内指揮使楊彪が撃退した。
◎.正月 朱全忠軍は壽州に迫ったが取れず、2月に戻った。
◎.正月 將王茂章が潤州を陥し、安仁義が敗死した。
◎.正月 錢鏐軍が睦州を攻めたが敗北した。
◎.2月 劉存は鄂州を陥し、杜洪は殺された。存が鄂岳観察使となった。
◎.4月 將陶雅が衢、睦兵と錢鏐麾下の婺州を攻めた。
◎.8月 全忠は山東趙匡凝が行密と連携したことを怒り、將楊師厚に唐、鄧、復、郢、隨、均、房七州を陥させた。9月 匡凝は敗れて淮南へ奔った。
◎.11月 將陶雅、陳璋は婺州を陥し、雅を江南都招討使,歙婺衢睦觀察使とした。濠州團練使劉金が卒し、子の仁規を知濠州とした。
◎. 楊行密は重病となり、長子の宣州觀察使楊渥を召還した。渥は軽薄で人望がないため、軍府の属僚は危ぶんだが、左右牙指揮使徐温、張顥等は渥への継承を薦めた。潤州團練使王茂章が代わって宣州觀察使となった。
◎.10月 山東・荊南を平定した全忠は、さらに淮南北部へ侵攻したが、光州・壽州攻撃には失敗し、11月に帰還した。
◎. 揚州に戻った楊渥が淮南節度留後に自立した。
◎.11月. 呉武忠王楊行密が薨じた。宣諭使李儼は楊渥を淮南節度使東南諸道行營都統兼侍中弘農郡王にした。すでに唐朝は朱全忠の支配下にあるのでこのような決定は自作である。
◎.12月 陳詢は睦州を棄てて逃げ、淮南招討使陶雅が代行した。
◎. 無能な渥はさっそく騒動を起こし、宣州時代の側近部下を取り戻そうとした。觀察使王茂章は応じなかったので、渥は馬步都指揮使李簡に追討させた。
◎. 湖南馬殷軍が行密の死に乗じて侵攻してきたが、牙内指揮使楊彪が撃退した。
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