◎.5月 朱全忠より杜洪支援を要請された荊南成汭は全軍を率いて東下した。しかしその隙に湖南馬殷將許德勳と、朗州雷彥威將歐陽思に突かれ、根拠地江陵を陥され掠奪された。汭の將士は動揺し帰還を求めたが、汭は聞かずに、行密將李神福と戦い敗死した。
◎.6月 全忠嫡子友寧は大軍を率いさせ、登州を攻めた。王師範、王茂章は迎撃して戦い、友寧は敗死した。全忠は愕然として自ら急行してきた。
◎.7月 全忠の大軍に敵わず、茂章は勇戦したが撤退した。
◎.8月 寧國節度使田頵が潤州團練使安仁義とともに全忠に通じて反した。頵は行密の旧友であったが、積極拡張策を好み、領土の保全安定を望む行密と対立していった。安仁義は沙陀出身の騎將であった。奉國節度使朱延壽もまたこれに通じた。延壽の姉は行密夫人であった。
◎.9月 行密は延壽を騙して呼び寄せて殺した。
◎.9月 將李神福は田頵軍を吉陽磯に破った。
◎.9月 王師範は全忠に降った。行密は内乱により支援する余裕がなかった。
◎.10月 將台濛が田頵軍を蕪湖で潰滅させた。
◎.10月 行密は錢鏐に支援を求め、鏐軍も田頵を攻めた。
◎.12月 田頵が敗死した。台濛が宣州觀察使となった。
天復四年/天祐元年[904]
◎.3月 行密は鏐の子を還して親和し、又李神福に杜洪を攻めさせた。
◎.8月 李神福が病死し、舒州團練使劉存[泌陽人]が代わって杜洪招討使となった。この月、宣州觀察使台濛も病死し、行密子渥が宣州觀察使となった。
◎.11月 光州が反して全忠に附き。全忠は自ら杜洪の支援に穎州まで南下した。
◎.12月 錢鏐下睦州州刺史陳璋が反して行密に附いた。
◎.6月 全忠嫡子友寧は大軍を率いさせ、登州を攻めた。王師範、王茂章は迎撃して戦い、友寧は敗死した。全忠は愕然として自ら急行してきた。
◎.7月 全忠の大軍に敵わず、茂章は勇戦したが撤退した。
◎.8月 寧國節度使田頵が潤州團練使安仁義とともに全忠に通じて反した。頵は行密の旧友であったが、積極拡張策を好み、領土の保全安定を望む行密と対立していった。安仁義は沙陀出身の騎將であった。奉國節度使朱延壽もまたこれに通じた。延壽の姉は行密夫人であった。
◎.9月 行密は延壽を騙して呼び寄せて殺した。
◎.9月 將李神福は田頵軍を吉陽磯に破った。
◎.9月 王師範は全忠に降った。行密は内乱により支援する余裕がなかった。
◎.10月 將台濛が田頵軍を蕪湖で潰滅させた。
◎.10月 行密は錢鏐に支援を求め、鏐軍も田頵を攻めた。
◎.12月 田頵が敗死した。台濛が宣州觀察使となった。
天復四年/天祐元年[904]
◎.3月 行密は鏐の子を還して親和し、又李神福に杜洪を攻めさせた。
◎.8月 李神福が病死し、舒州團練使劉存[泌陽人]が代わって杜洪招討使となった。この月、宣州觀察使台濛も病死し、行密子渥が宣州觀察使となった。
◎.11月 光州が反して全忠に附き。全忠は自ら杜洪の支援に穎州まで南下した。
◎.12月 錢鏐下睦州州刺史陳璋が反して行密に附いた。
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