唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

山南東道節度使史7

2020-10-13 10:00:40 | Weblog
咸通二年[861年]
◎. 蔣係は東都留守に転じた。
◎.10月 御史大夫鄭涯[字?]より金紫光禄大夫検校右僕射守襄州刺史御史大夫充山南東道節度使管内観察處置等使榮陽郡公三千戸となる。文官であるが伝がない。

咸通四年[863年]
◎. 鄭涯 ?
◎. 檢校司徒淮南節度使崔鉉[字台碩]が檢校司徒山東節度使となったようだ。

咸通五年[864年]
◎. 崔鉉は荊南節度使に移ったようだ。
◎. ?盧耽[字?] 山東節度使。文官出身、伝はない。

咸通九年[868年]
◎.9月 山東節度使盧耽は劍南西川節度使となる、定邊軍節度があったため統押諸蠻安扶等使を領せず。

咸通十年[869年]
◎. ?裴坦[字知進].後に宰相となる。

咸通十二年[871年]
◎. 裴坦 ?
◎.7月 兵部尚書盧耽[字?]が同平章事山東節度使となる。耽は再任である。

咸通十三年[872年]
◎. 盧耽 ?
◎.3月 宰相于琮[字禮用]が開府儀同三司檢校左僕射兼襄州刺史御史大夫充山南西道節度觀察等使に左遷され、すぐに正議大夫普王傅分司へと再貶される。
◎. 陝虢観察使楊知溫[字?]が檢校兵部尚書襄州刺史山南東道節度使となる。進士出身。

咸通十四年[873年]
◎. 楊知溫  ?  乾符4年には荊南節度使であった。
◎. 宰相李蔚[字茂休] 山東節度使? → 檢校吏部尚書揚州大都督府長史兼淮南節度副大使知節度事淮南節度使。蔚は進士出身。宰相後、楊知溫の跡の整理のためか。
◎.11月? 光禄大夫太子少傅于琮 檢校司空襄州刺史充山南東道節度觀察處置等使

乾符三年[875年]
◎. 于琮 → 右僕射? 乾符6年右僕射説あり
◎. 検校右僕射東都留守李福[字能之] 檢校右僕射襄州刺史兼御史大夫充山南東道節度使。福は宰相石の弟で進士出身。團練兵を整備していたため、流賊王仙芝も入れず、鄂岳方面へ転じた。危機に陥った荊南節度使楊知溫を自ら沙陀兵を率いて救援した。

乾符五年[878年]
◎.2月 李福は荊南救援の功績で加検校司空平章事

乾符六年[879年]
◎. 李福 辞して太子太傅となる。
◎.10月 檢校右常侍山東行軍司馬劉巨容[字?]が山東節度使となる。徐州將で龐勗下より帰順し王郢を討つ功があり、蘄黃招討副使とし黄巣を討つ。
◎.11月 荊南王鐸が黄巣に逐われ逃走したあと、劉巨容と江西招討使淄州刺史曹全晸は荊門に黄巣を迎撃し潰滅させた。巢は南方へ逃亡したが巨容は追わなかった。その言として「唐朝は都合の良いときだけ軍人を使い、賊が亡ぶと使い捨てる。賊は富貴のもとだから滅ぼしてはいけない」
◎. 功績により加檢校禮部尚書

中和元年[881年]
◎. 巨容は諸道兵と黄巣を討ち、南面行營招討使となり、檢校司空兼天下兵馬先鋒開道供軍糧料使封彭城縣侯。
◎. 巨容は吏治に明るく、僖宗行在との通行を保護した。→加同平章事

中和四年[884年]
◎.11月 山西鹿晏弘が東へ出、秦宗權將秦誥・趙德諲と會して襄州を陷した。山南東道節度使劉巨容は成都へ奔った。襄州は秦宗權支配下となり趙德諲が留後となった。

光啓三年[887年]
◎.12月 秦宗權所署山南東道留後趙德諲は荊南を陥し節度使張瓌を殺した。そして將王建肇を遺して戻った。荊南はすっかり荒廃し數百家しか残っていなかった。

文德元年[888年]
◎.4月 歸州刺史郭禹[後の成汭]が荊南を攻め、留守王建肇を黔州に逐った。
◎.5月 秦宗權山南東道留後趙德諲は荊南を失い、秦宗權が劣勢になったことを知り、山南東道をもって朱全忠に降った。全忠は山南東道を忠義軍節度として、德諲を節度使充蔡州四面行營副都統とした。

龍紀元年[889年]
◎.3月 秦宗權を平定され、忠義節度使趙德諲は中書令となった。
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