武德元年 西暦618年
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五月甲子,即皇帝位於太極殿。改元。
廃された代王[恭帝]は二年八月に亡くなります、死因は不明です。
六月甲戌,李世民為尚書令,裴寂為右僕射,劉文靜為納言,蕭瑀、竇威為内史令。
建成は皇太子。寂と文靜は建国の功臣、瑀は後梁の皇族出身、威は外戚です。
庚辰,立世子建成為皇太子,封世民為秦王,元吉齊王。
六月癸未,薛舉寇涇州,秦王世民為西討元帥,劉文靜為司馬。
さっそく鳳翔に自立する薛舉が来寇します。文靜が実質統帥として迎撃します。
六月辛丑,竇威薨。陳叔達判納言,竇抗兼納言。
叔達は陳の皇族出身、抗は威の代わりの外戚です。
七月壬子,劉文靜及薛舉戰於涇州,敗績。
舉に敗北し、文靜は左遷されました。西邊の危機です。世民は名目上の将なので処罰されません。
八月辛巳,薛舉卒。
都合の良いことに強盛な擧が死んでくれ、子の仁杲が嗣ぎましたが勢力は衰えました。
八月壬午,涼州李軌降。
共同して薛舉を防ごうとしたわけです。「降」は唐朝としての建前で、軌にとっては同盟です。
八月己丑,秦王世民為西討元帥,以討薛仁杲。
九月甲寅,秦州總管竇軌及薛仁杲戰,敗績。
世民が始めて統帥となり仁杲の来寇を防ぐことになりました。しかし敗北が続きます。負けたときは他将の名目になります。
九月辛未,宇文化及殺秦王浩,自稱鄭皇帝。
十月己卯,李密降。
東都で王世充に敗北した密が亡命してきました。唐朝としては密の残存勢力[徐世勣等]を吸収して華何地域に勢力拡大しましたが、密に対しては冷遇しました。
十一月,己酉,秦王世民敗薛仁杲,執之。
世民が初の軍功を上げました。唐朝は西邊からの脅威を逃れることができました。
十一月,癸丑,行軍總管趙慈景攻蒲州,隋刺史堯君素拒戰,執慈景。
十二月丙子,蒲州人殺堯君素,立將王行本。
隋の残存勢力である君素を攻めましたが敗北しました。
十二月庚子,光祿卿李密反,伏誅。
冷遇されて密は逃亡し、河南で復帰しようとしましたが殺されました。人望がなかったせ
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五月甲子,即皇帝位於太極殿。改元。
廃された代王[恭帝]は二年八月に亡くなります、死因は不明です。
六月甲戌,李世民為尚書令,裴寂為右僕射,劉文靜為納言,蕭瑀、竇威為内史令。
建成は皇太子。寂と文靜は建国の功臣、瑀は後梁の皇族出身、威は外戚です。
庚辰,立世子建成為皇太子,封世民為秦王,元吉齊王。
六月癸未,薛舉寇涇州,秦王世民為西討元帥,劉文靜為司馬。
さっそく鳳翔に自立する薛舉が来寇します。文靜が実質統帥として迎撃します。
六月辛丑,竇威薨。陳叔達判納言,竇抗兼納言。
叔達は陳の皇族出身、抗は威の代わりの外戚です。
七月壬子,劉文靜及薛舉戰於涇州,敗績。
舉に敗北し、文靜は左遷されました。西邊の危機です。世民は名目上の将なので処罰されません。
八月辛巳,薛舉卒。
都合の良いことに強盛な擧が死んでくれ、子の仁杲が嗣ぎましたが勢力は衰えました。
八月壬午,涼州李軌降。
共同して薛舉を防ごうとしたわけです。「降」は唐朝としての建前で、軌にとっては同盟です。
八月己丑,秦王世民為西討元帥,以討薛仁杲。
九月甲寅,秦州總管竇軌及薛仁杲戰,敗績。
世民が始めて統帥となり仁杲の来寇を防ぐことになりました。しかし敗北が続きます。負けたときは他将の名目になります。
九月辛未,宇文化及殺秦王浩,自稱鄭皇帝。
十月己卯,李密降。
東都で王世充に敗北した密が亡命してきました。唐朝としては密の残存勢力[徐世勣等]を吸収して華何地域に勢力拡大しましたが、密に対しては冷遇しました。
十一月,己酉,秦王世民敗薛仁杲,執之。
世民が初の軍功を上げました。唐朝は西邊からの脅威を逃れることができました。
十一月,癸丑,行軍總管趙慈景攻蒲州,隋刺史堯君素拒戰,執慈景。
十二月丙子,蒲州人殺堯君素,立將王行本。
隋の残存勢力である君素を攻めましたが敗北しました。
十二月庚子,光祿卿李密反,伏誅。
冷遇されて密は逃亡し、河南で復帰しようとしましたが殺されました。人望がなかったせ
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