六月壬寅,幽州兵馬使朱希彩殺其節度使李懷仙,自稱留後。
李懷仙は節度使となった後、傲慢になり主君面をした。外夷と常に対峙する幽州軍では、上下関係より軍事能力が重視されている。希彩は同姓の泚や滔兄弟と共謀して乱した。唐朝は一旦宰相王縉を送り込んだが、統制できずとみて希彩の継承を認めた。
七月壬申,濾州刺史楊子琳反,陷成都。
四月、西川節度崔寧は入朝して、朝廷各所に贈賄し地位を固めていた。しかし同じく劍南の武将であった子琳は不満で、留守に乗じて成都を奪った。慌てた唐朝は寧を帰任させることにした。寧の弟寬はなかなか勝てなかったが、寧の妾任氏が募兵して攻撃し子琳を逐った。子琳は東川に奔った。
八月己酉,吐蕃寇靈州。丁卯,寇邠州,京師戒嚴。
吐蕃が大軍をもって京師近郊まで来襲し激戦になったがなんとか撃退することができた。
八月庚午,河東節度使辛雲京薨,以王縉領河東節度使,餘如故。
半分自立していた雲京が卒し、再び宰相王縉が派遣された。今回はなんとか牙軍を抑えて支配権を回収することができた。
十二月辛酉,涇原兵馬使王童之謀反,伏誅。
吐蕃の来寇に際しては邠寧節度使[節度使馬璘]が最前線となり、河中より郭子儀軍が来援するという形をとっていた。ところが来援が遅れると京師が危機になるのを懼れた朝廷は、馬璘を邠州から涇州に進出させ、子儀軍主力を邠州に置くようにした。璘軍は元は遙か安西四鎭より派遣された軍で、各地を転々としてやっと数年邠州に落ち着いた所[当時の軍は家族も帯同している]であった。さらに危険で貧寒な涇州への移鎭は耐えがたいものであったので、牙軍は激しく動揺した。そこで璘は主力兵だけを率いて涇州へ急行し、留後段秀實が不満派を慰撫してなんとか収めた。
十二月、平盧将許杲は勝手に濠州に入り、淮南狙い、漕運を妨げようとしていた。淮南節度使崔圓は歴戦の将張萬福を派遣し追いはらった。さらに和楚州を荒らした杲軍を萬福は撃破鎮定した。
李懷仙は節度使となった後、傲慢になり主君面をした。外夷と常に対峙する幽州軍では、上下関係より軍事能力が重視されている。希彩は同姓の泚や滔兄弟と共謀して乱した。唐朝は一旦宰相王縉を送り込んだが、統制できずとみて希彩の継承を認めた。
七月壬申,濾州刺史楊子琳反,陷成都。
四月、西川節度崔寧は入朝して、朝廷各所に贈賄し地位を固めていた。しかし同じく劍南の武将であった子琳は不満で、留守に乗じて成都を奪った。慌てた唐朝は寧を帰任させることにした。寧の弟寬はなかなか勝てなかったが、寧の妾任氏が募兵して攻撃し子琳を逐った。子琳は東川に奔った。
八月己酉,吐蕃寇靈州。丁卯,寇邠州,京師戒嚴。
吐蕃が大軍をもって京師近郊まで来襲し激戦になったがなんとか撃退することができた。
八月庚午,河東節度使辛雲京薨,以王縉領河東節度使,餘如故。
半分自立していた雲京が卒し、再び宰相王縉が派遣された。今回はなんとか牙軍を抑えて支配権を回収することができた。
十二月辛酉,涇原兵馬使王童之謀反,伏誅。
吐蕃の来寇に際しては邠寧節度使[節度使馬璘]が最前線となり、河中より郭子儀軍が来援するという形をとっていた。ところが来援が遅れると京師が危機になるのを懼れた朝廷は、馬璘を邠州から涇州に進出させ、子儀軍主力を邠州に置くようにした。璘軍は元は遙か安西四鎭より派遣された軍で、各地を転々としてやっと数年邠州に落ち着いた所[当時の軍は家族も帯同している]であった。さらに危険で貧寒な涇州への移鎭は耐えがたいものであったので、牙軍は激しく動揺した。そこで璘は主力兵だけを率いて涇州へ急行し、留後段秀實が不満派を慰撫してなんとか収めた。
十二月、平盧将許杲は勝手に濠州に入り、淮南狙い、漕運を妨げようとしていた。淮南節度使崔圓は歴戦の将張萬福を派遣し追いはらった。さらに和楚州を荒らした杲軍を萬福は撃破鎮定した。
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