唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

山南東道節度使史1

2020-10-06 10:00:23 | Weblog
山南東道の中心地は採訪使治所の襄州であるが、初期は南陽郡=鄧州が起点である。

天寶十四年[755年]安禄山が反し南下して東都を陥した。
◎. 文官出身の襄陽太守徐浩は本郡防御使を兼ねたらしい。

天寶十五年/至德元年[756年]
◎.正月 南陽節度使を置き、南陽太守魯炅を任,嶺南、黔中、襄陽の蕃族子弟五萬人を葉北に集めて安祿山軍の南下に備える。
炅は兵学を学び、隴右節度使哥舒翰麾下として右領軍大將軍員外同正員に至る。正月上洛太守兼御史中丞[商州]に任ぜられるが、すぐ南陽太守兼守択防御使へ。尋兼御史大夫,充南陽節度使に昇進。
◎.正月 また襄陽にも防御守捉使が置かれた。
◎. 襄陽大守防禦守捉使徐浩は中書舎人となった。後任の襄陽防御使は文官侍御史崔伯陽であるが実任したかどうかは不明。まもなく河西隴右宣慰使兼御史中丞として転任。
◎. 後任の襄陽太守韓洪は山南東道防御使となったが事跡不明。
◎. その後、文官李峘が襄陽太守となり至徳二年へ
◎.5月 南陽節度使魯炅は滍水南で安祿山將武令珣、畢思琛に敗北し南陽で包囲された。
夷陵太守虢王巨を太僕卿陳留譙郡太守河南節度使とし、嶺南、黔中、南陽節度使魯炅を統御させた。巨は藍田を出て、南陽の包囲を解かせた。
◎.7月 南陽節度使を廃止し、襄陽防禦使を山南東道節度使領襄鄧隋唐安均房金商九州治襄州とした。節度使は魯炅である。
◎.是歳 興平節度使を上洛郡[商州]に置き、金商均房四州を領させた。山東西部を分割したようである。

至德二年[757年]
◎.正月 旧紀では將作少監魏仲犀を為襄陽山南道節度使とする?。襄陽の太守は魏仲犀のようである。魯炅が南陽に籠城しているための代理か?
◎.5月 南陽は安禄山將武令珣、田承嗣に攻められ、食料が不足したため、炅は城を捨てて襄陽に奔った。田承嗣はこれを逐ったが逃走をゆるしてしまった。
◎. 安禄山軍は南陽攻囲に手間取り、荊南方面への南下する機会を失った。

安慶褚軍が京師から敗走し、情勢は大きく変わり、山東からも安禄山軍は撤退していった。
◎.10月 興平軍は武關・上洛郡を回復した。
田承嗣・武令珣等は河北へ奔った。

◎.11月 宰相張鎬は魯炅、來瑱、呉王祗、李嗣業、李奐五節度を率いて河南、河東の郡縣を回復していった。
◎.12月 恩賞として特進太僕卿南陽太守兼禦史大夫權知襄陽事金鄉縣公魯炅は開府儀同三司兼禦史大夫封岐國公仍食實封二百戶。


至徳三年/乾元元年[758年]
◎.3月 旧紀では山南東道、河南、淮南、江南皆置節度使。
◎.9月 庚寅,命朔方郭子儀、淮西魯炅、興平李奐、滑濮許叔冀、鎮西、北庭李嗣業、鄭蔡季廣琛、河南崔光遠七節度使及平盧兵馬使董秦將步騎二十萬討安慶緒
◎.10月 魯炅自陽武濟,季廣琛、崔光遠自酸棗濟,與李嗣業兵皆會子儀于衛州。
◎. 是年.文官王翊が商州刺史から山東節度觀察使となっている。まもなく北蕃宣慰使となったようだが、状況は不明である。

乾元二年[759年]
◎.3月 史思明と李光弼、王思禮、許叔冀、魯炅とが戦い、炅は負傷した。
唐朝軍は史思明に大敗し潰滅した。そのため各軍は撤退した、郭子儀や李光弼・王思禮はまだ軍の体裁をなしていたが、南方の蕃軍の寄せ集めの魯炅軍は剽掠を繰り返す惨めな雑軍となった。
◎.4月 唐朝は当面、陳鄭潁亳節度使を置き魯炅を兼任節度使とする。興平軍節度使李奐兼豫許汝三州節度使とし史思明軍との境界を守らせた。
◎.4月 魯炅は潰軍の状態を恥じて自殺した。
◎.8月 襄州將康楚元・張嘉延が反乱し、襄州刺史王政を逐い、楚元は南楚霸王を自称した。
上使の宦官將軍曹日升が襄州へ行き、康楚元等を慰撫し、王政を饒州長史に左遷して、司農少卿張光奇を襄州刺史とすると通達したが、楚元等は従わなかった。政も光奇も文官であり、魯炅が招集した雑軍を抑えられなかったようである。
◎.9月 張嘉延が荊州を攻撃すると、なんの備えもない文官の荊南節度使杜鴻漸はたちまち敗走し、澧、朗、郢、峽、歸州等の官吏は逃げ惑うありさまであった。
◎.9月 太子少保崔光遠が荊襄等州招討使充山南東道處置兵馬都使として楚元・嘉延を鎮定に向かうことになった。光遠は玄宗逃亡時の京兆尹である。
◎.11月 山東の西部にある商州刺史充荊襄等道租庸使の韋倫は崔光遠の出陣を待たずに独自に出兵し、雑軍である乱軍を蹴散らして鎮定し、楚元を捕らえた。倫は宰相見素の從祖弟。
◎.12月 康楚元が誅され、京兆尹兼御史大夫史翽が襄州刺史充山南東道節度觀察處置等使となった。翽もまた文官である。

乾元三年/上元元年[760年]
◎.4月 襄州將張維瑾・曹玠が反乱し、節度使史翽を殺した。
◎. 一旦は、前乱を平定した隴州刺史韋倫を山南東道節度使として討たせることにしたが、倫が実力者の宦官李輔國のもとに挨拶[贈賄であろう]に来ないので、輔國はたちまち倫を秦州防御使に左遷し、陝西節度使の來瑱を光禄大夫太常卿同正兼禦史大夫襄州刺史充山南東道襄鄧等十州節度觀察處置等使とした。
◎. 武官で威望のある瑱が来ると、乱將たちはたちまち帰順した。ようは規律のない蕃族達が騒ぎ、文官には抑えられなかっただけである。親分格の瑱がくると喜悦して従うのであった。

元年[762年]
◎.建辰月 瑱は山東將士をよく統制し、將士も畏服していた。荊南呂諲や淮西王仲昇は瑱を反乱の気配があると誣告した。そのため肅宗は山東所管十州のうち商金均房四州を分離して武關觀察使を置いた。
◎. 瑱は恨んで、史思明將謝欽讓が淮西王仲升を申州に包囲するのを支援せず放置した。仲昇が降伏すると、瑱の行軍司馬裴戎が節度使を狙って誣告した。。
◎. 瑱は開府儀同三司兼禦史大夫安州刺史充淮西申安蘄黃沔陳鄭穎亳汴曹宋徐泗光壽十六州節度使.封潁國公とされた。一応昇進し領域拡大にみえるがほとんどの領州は史思明領であり、他も荒れ果てている地域であった。戎は瑱に代わって襄鄧等州防御使に任ぜられた。

寶應元年[762年]
◎.5月 來瑱は移鎭を聞くと、將士を扇動して、盛んに宦官李輔國に贈賄し留任を働きかけた。唐朝は姑息で乱を懼れて、瑱を山南東道節度使に復任させた。
◎.6月 襄鄧防御使裴戎は任命を受けて麾下を率いて襄陽に入ろうとしたが、瑱軍の迎撃を受けて敗れて捕らえられた。皇帝に裏切られた戎は乱を起こしたとして殺された。
◎.7月 瑱は襄州より入朝したが、この間に中央では李輔國が失脚し、瑱に恨みを持つ程元振が実権を握って行っていた。
◎.8月 山南東道節度使瑱入朝謝罪,上優待之。
◎.9月 山南東道節度使來瑱為兵部尚書同中書門下平章事,山東節度如故。瑱は使相となり極めて優遇を受けた。これは唐朝の好い加減な政策に対する償いであったと思われる。しかし輔國に対する遠慮もあったのだろう。
◎.10月 代宗は李輔國を殺害する。

寶應二年/廣德元年[763年]
◎.正月 程元振は瑱を誣告し、開府儀同三司行兵部尚書同中書門下平章事充山南東道節度觀察處置等使穎國公來瑱を殺した。
各地の軍人達は唐朝に極めて不信感を抱くようになった。この後の吐蕃来寇に際して、各地からの援軍が得られなかったのはこのためである。
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