昨年、横須賀にある記念艦「三笠」を訪ねたとき、意外なほどシルバー世代の見学者が多く、
NHKの「坂の上の雲」効果かなあ、と思ったわけですが、
その後、第4部が放映された後、一層訪れる人は増えたようで、なんと先日は
三越お客様対象の「坂の上の雲の舞台を訪ねて!記念艦三笠見学ツアー」
なんてプランを見つけてしまいました。
あの番組の放映によって「日本海海戦」「東郷」「秋山真之」「広瀬中佐」「バルチック艦隊」
こんな言葉に魅かれた人々が、ドラマに描かれたころの痕跡を求めて立ち寄る場所がある。
記念艦「三笠」の存在は、まさに我々にとって歴史的遺産です。
今でこそその姿を静かにそこにとどめている「三笠」ですが、ここに至るまでに、
なんどもその存続については危機が訪れています。
前回三笠について書いたときに、敗戦後、ソ連政府によって、バルチック艦隊に屈辱を与えた
三笠を廃棄せよという申し出があったこと、そしてその後も進駐軍によって、
水族館や「キャバレー・トーゴー」などの遊行施設となる辱めを受けたことをお話ししました。
このとき、戦後の三笠を救ったのは、この惨状を見た
イギリス人の新聞記者ジョン・S・ルービンでした。
若き日に時計を扱う商人であったルービンは、日本の回航員を相手に商売をするうちに、
日本の将兵と親しくなりました。
イギリスで建造中の三笠の姿を知っていたルービンは、1902年、三笠がイギリスの港を
辞するとき、艦影の霞むまで埠頭に立ちつくして涙ぐみ、別れを惜しんだと言われます。
日本を敵国と呼ばなければならなかった第二次世界大戦中、
ルービンの住居に飾られていた三笠の写真は、ひっそりと奥にしまわれこそしましたが、
平和な世になり、新聞記者として日本を訪れることになったルービンは、
旧友、いや、恋人に会うような気持で、横須賀の「三笠」との再会を果たしました。
彼はそこで半世紀の間脳裏にあった三笠に接し、アドミラル・トウゴウの霊に語り、
日本破れたりといえども、三笠と東郷の精神ある限り、
大国への復活もまた速やかならんことを祈ろうとしたのでした。
・・・ところが。
そこに三笠は見えませんでした。
再び探すと、そこに裸になって残骸を横たえている三笠がありました。
執拗なソ連の要求によって、マスト、砲塔、煙突、艦橋を撤去された、まるで河馬のような三笠が。
憤然としたルービンは、筆をとり、火を吐く激しさでジャパン・タイムズにこれを訴えます。
日本人はこの国辱的仕打ちを看過するのか。精神まで汚されて平気なのか。
日本人の忘恩と無自覚を問責したこの記事が書かれたのは、昭和30年のことです。
これを見て、アメリカ人ハロルド・ロジャース、オーストリア人ボール・ド・ジャルマスイが、
その文責で
「三笠の復活は日本国民の精神復興の試金石である」
と説きました。
アメリカ海軍太平洋艦隊司令長官、チェスター・ニミッツも、三笠を救った一人です。
「出てこいニミッツ、マッカーサー」
と、鬼畜米英の象徴として戦中の日本国民にその名をうとまれたニミッツですが、
もともと彼は若き士官候補生時代、日露戦争の戦勝園遊会で東郷元帥と握手し、
言葉を交わして以来の熱烈な「トーゴー・ファン」。
アメリカ軍のアジア艦隊旗艦の艦長として、東郷の葬列にも参加しています。
ニミッツは自著の売り上げを原宿の東郷神社再建や、三笠の保存のために投じ、
さらに保存会の立ち上げに奔走し、米海軍にも協力を呼びかけました。
ルービン氏が国内に、かつて三笠の回航員であった日本人に呼び掛け、名乗りを上げた中に、
退役後学習院の院長として、その人柄を広く慕われた海軍大将山梨勝之進がいます。
山梨とルービンのつながりを示す文献は見つかりませんでしたが、23歳のときに回航員として
英国に二年渡り、のちに英国から「サー」の称号を受けた山梨の若き日が
「時計商人ルービン」の親しかった回航員ではないかなどと、ふと考えてみます。
話は遡りますが、ここまで三笠が荒廃したのにはこんなわけがあります。
昭和23年、三笠を観光用に使うことが、米軍と横須賀市の間で話がついて、Sという会社が
引き受けて経営することになりました。
この社長もまた元新聞人であって、三笠の廃棄を惜しみこそすれ、
この記念艦を汚そうなどとは思っていませんでした。
しかし、S社は、逼迫した会社の経営のために、背に腹は代えられずというところでしょう、
艦上の鉄類をはぎ取って売却したと言われています。
S会社が、観光遊覧を生業とする個人の会社であることが裏目に出たというわけです。
軍艦の神聖維持など二の次三の次、というわけでついには三笠は、
ダンスホール、映画館として利用されることになってしまったのです。
「バー・トウゴウ」「カフェー・カトウ」は、さすがに悪質な風評ではあったようですが。
日本が独立後、昭和27年に、三笠は大蔵省の財産目録に加えられました。
そこで国の庇護のもとに入るかと思われた三笠ですが、実際は大蔵省は、三笠の艦側に
保全されていたマスト、砲塔、煙突、艦橋の鉄類が、スクラップ業者に売られていくのを
阻止することをしませんでした。
知らなかったのか、知っていて(何らかのキックバックをもらって?)見逃したのかは、謎です。
時は朝鮮戦争のころ、クズ鉄の値段が高騰し、戦艦に使われた高品質な鉄材を安価に
払い下げたこの業者は、さぞぼろ儲けができたことと想像します。
いずれにしても、ソ連の要請により取り外されたものの
「いつかその時がきたら復元するために」と梱包して保存していたオリジナルの部分は、
日本人みずからの手によって永遠に葬り去られてしまったのです。
日本海海戦において輝かしい武勲を飾り故国に凱旋してきた三笠。
日露戦争から一年後の1905年、佐世保港内で弾薬庫の爆発のため沈没します。
死者339名(多くが軍楽兵)を出す大事故でした。
その後、ウラジオストックで、今度は座礁して、満身創痍となって日本に帰ってきました。
次いで1921年(大正10年)、ワシントン会議の結果、三笠は廃棄処分が決まります。
このとき廃棄になったのが香取、薩摩、安芸、摂津、生駒、伊吹、鞍馬など。
三笠の主要部分は着々と取り外しが進み、あとはスクラップになって溶鉱炉行き、
というところで、「三笠保存運動」が起こります。
この中心になった人物というのが、不思議なことにこれもまたジャパン・タイムズの関係者。
アメリカ在住が長く、日本語より英語の方が上手いといわれた、元社長芝染太郎氏その人です。
氏は長い間ハワイで新聞社の社長として活躍した人ですが、母国を離れたからこそ、
生まれた国の良さを知ることになった、烈々たる愛国者でもありました。
(僭越ですが、わたしも日本を離れていた時期に日本の良さを知った口です)
日本海海戦の旗艦であった三笠を、歴史の証人として保存すべく、芝は立ちあがります。
「トラファルガル開戦のヴィクトリア号も、南北戦争のコンスティチューション号も、
皆記念艦として大切に保存されているのに、等しく嚇嚇たる武勲に輝く我が三笠だけが
無残にもスクラップ・ダウンされるなどという不合理なことがあってよい筈はない」
芝は毎日のようにこういう論陣を張って、自分の新聞で啓蒙に努めました。
そして、内外の賛同者の意見を紹介し、世論の喚起に懸命の努力をしたのです。
その熱意は人々を動かし、東郷大将が芝社長を訪ない、意見を交わすこともありました。
芝の不退転の熱意はついに天に通じ、スクラップ寸前の三笠は廃棄処分を免れ、
晴れて記念館として永久保存することが決定したのでした。
芝に対して、この功績を称えるための叙勲が打診されました。
しかし芝は
「私は日本人として当然の務めを果たしただけなので、叙勲など滅相もないことです。
それに、一介の民間の新聞人は新聞人らしい無位無勲が似つかわしいと思いますので」
と固辞し続けました。
その態度にいたく感銘を受けた東郷大将は、非常に大きな三笠の写真に、例の
「接敵艦見之警報
欲聯合艦隊直出撃撃滅之
本日天気晴朗波高」
「皇国興廃在此一戦
各員一層奮闘努力」
の言葉を墨痕も鮮やかに大書して署名花押し、贈呈しました。
老提督と芝社長は感激して上気し手を取り合ったということです。
そして、その後前述の、屈辱のときをくぐり抜けた三笠でしたが、
またしても危機が訪れます。
記念艦として一時仮据え付けをしたものの、最初の設置場所の海底の状況が悪くて、
現在据え付けてある位置まで移動させる必要に迫られました。
しかし、長年の就役期間に度重なる爆破、座礁、地震(関東大震災のとき岸壁に衝突)のため
損傷、腐食、漏水が甚だしく、浮揚移動させることが難しく、ヘタすると沈没の危険もあり、
艦橋だけ残してあとはスクラップ、という話がでます。
しかしながら、横鎮参謀長、宇川少将(日本海海戦参加者)や港務部員らの苦心によって、
滞りなく現在の位置に据え付けることができ、ここでも三笠は救われます。
そして冒頭の終戦後の荒廃が「二度あることは三度」目の危機であったわけです。
たくさんの人々の熱意と努力によって存えた三笠は、いまはそのかつての雄姿を埠頭に留め、
軍艦旗は今日も横須賀の空に翩翻と翻って、往時へと訪れる人々をいざなっているのです。