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義烈空挺隊~戦果と特攻の意義

2012-05-27 | 陸軍

                   
         

義烈空挺隊の特攻作戦は、当初、日本側には数の点でかなりの誤認がありました。

健軍を離陸した飛行機は全部で12機。
そのうち、4機が機体不良や不時着など、航法未熟のた引き返しています。
同行した戦果確認機は、6機が着陸コースに入ったのを見届け報告しました。

その後、健軍と知覧では、アメリカ軍が混乱している様子が生文で傍受されたため、
日本側では義烈隊がかなりの大戦果をあげたものと期待したようです。

そして、それは決して間違いとは言い切れないものでした。

確かに六機のうち実際強行着陸したのは一機だけで、後は撃墜されたり地上に激突しました。
しかし、この着陸した一機の隊員がアメリカ軍をこの日混乱に陥れました。



強行着陸した一機から降り立った7名は、奥山隊長の言うところの「訓練の通りに」、
9機の(おそらくB-29を含む)高価な飛行機を完全に破壊、29機(計26機説もある)
を大破させました。
炎上損傷38機、結局これら航空機は、全てがその後使い物にならなかったそうです。

左画像は、義烈隊員がドラム缶の集積所に火をつけ、計7万ガロンの航空燃料が爆発、
炎上した瞬間を写真に収めたもので、右は、シャワーのように見える対空砲火です。

これほどのを敵弾雨飛をくぐり抜け、とにかく一機が強行着陸に成功し損害を与えたのですから、
彼我の隔絶した当時の戦力差を思えば、突入は成功したと考えるのが妥当でしょう。

こんにちのアメリカ側の認識においても、「Giretsu Airborne Attack」
日本側が大戦中唯一成功したコンバット作戦であるということになっています。

さらにアメリカ側を驚かせたのは、この時突入した義烈の士官らしき隊員の遺体から、
航空基地の詳細な地図が発見されたことです。
その地図には、航空機の駐機場所、テントの場所に至るまで全く正確に印がつけられていました。

新聞が大々的に報じた義烈隊の戦果ですが、「両飛行場機能喪失」などという誤りが見えるものの、
何度も言うようにここまでは誇張でも何でもなかったと言えます。

しかし、義烈空挺隊の戦果は、多くを期待した大本営にとっては、
犠牲の大きさの割には僅少とされました。

前回述べたように、「義号作戦」の目的は、義烈隊が航空基地をかく乱し、敵が混乱している間に
航空特攻作戦でダメージを与えることでした。
しかし結果、陸海軍間の作戦連携がうまくいかず、義烈の戦闘だけで終わってしまったため、
これを第6軍司令官は「尻切れトンボなり」と評したのです。





この義烈空挺隊の攻撃について、終戦何周年の特別番組が作られていました。
制作はNHK、そしてフジテレビ、沖縄テレビ。

・・・・・・・この面々にいやな予感がしたあなた、あなたの予感は当たっている。

この三者がタグマッチを組んで制作したものであれば、その番組の意図はただ一つ。

「日本の始めた戦争で、無駄な作戦に命を奪われた犬死にの特攻隊哀れ」

このように最初から意図を疑ってみれば、そのナレーション、構成、カットの一つ一つに、
実に巧妙な「演出」がなされていることが、まるで楽屋裏を見ているようにわかります。

ナレーターは女性。
この女性ナレーターの読み方も「映像の世紀」のナレーションのような無機質なものではなく、
思いっきり何か―哀惜の情とか憐憫とかを―行間に込めまくった感情読み。
その切々たる声で、このようなコメントが映像と共に流れます。

若者たちは 戦争という悲運の中で
夕陽の金峰山(きんぽうざん)に向かって飛び立ち
 死地に赴きました。


「戦争という悲運」?

義烈空挺隊の編成から当日までの錬成の日々、どんな思いで彼らが激しい訓練に耐え、
自分たちの死が祖国の再生の礎になることを願って往ったか、
その遺志も、死の意義も、全てを「悲運」という陳腐な一言の中に落とし込んでしまう傲慢さ。

それにしても、この言葉を選択した制作者の語彙の貧困さは目を覆うばかりです。
取りあえず彼らを犠牲者扱いすることが第一目的だとすれば、
無難なネガティブ・ワードを並べておくことで、テレビの前で口を開けて見ている視聴者は
さらりと耳障り良くそれを受け入れ、それは達成できるでしょう。

その単なる無批判を、いつも製作者は都合よく「好評だった」と自己満足で捉えるのみ。
やり過ぎて「JAPANデビュー」のように訴えられることさえなければ、
どんな自虐捏造番組もいつのまにか自画自賛して一丁上がり。
そしてまた同じようなことを繰り返すのです。


生存者の元義烈隊員、田中賢二氏は、隊員たちの遺墨の写しを大切に持っています。
画面いっぱいに広げられたそれらに見える文字は

「斬」「断じて勝つ」「天皇陛下万歳」「撃滅」「忠勇」「武勇」「生中無生 死中有生」

これらの激烈な言葉をあたかも冷笑するように、ナレーションが入ります。

「戦争で青春を犠牲にした若者たち。
遺墨や遺書には綴れない想いもあったでしょう」


何一つ個人的な感慨、つまり「綴れない想い」も無く、戦争で死地に赴く人間が
果たしてこの世にいるとでも言うのでしょうか。

綴れない想いをあえて語らず、笑って死地に赴いた彼らの目指したものは、
自分の死によって一人でも多くの日本人が生きることであり、たとえ戦争に負けることがあっても
自分たちの特攻作戦が象徴的な犠牲となり、それが民族再生の礎を為すことだったはずです。


知覧特攻平和会館の見学を報告した時と同じことの繰り返しになるようですが、
戦後メディアというものは、どうして皆こういう同じようなギミックによる印象誘導を行うのか。
もしかして「ネイビーブルーに恋をして」というブログが目指すのは、これら左翼自虐メディアの
謀略の喝破であり糾弾ではなかったかと、最近自分でも勘違いするくらいですよ。


それにしても不愉快なのは、連中のギミックの中には必ず、
「彼らの戦果は無かった、或いは僅少であった」
といった戦略的な失敗をことさらあげつらうことが、効果として過剰に盛り込まれていることです。
特攻隊は戦争(というより日本帝国陸海軍)という巨悪の犠牲者であり、
報道の目的は犠牲者を追悼することであるとするのなら、少なくとも
その戦闘行為が戦略的に成功であったか否かは、特に語るに値しない事実であるはずなのに。

去年の暮、火を吐く勢いで糾弾したNHK制作の「真珠湾からの帰還」ですが、
あのお涙ちょうだい捏造歴史フィクションと同じ手口がここにも採用されています。

義烈空挺隊の強行着陸後、米軍の北飛行場は多数の飛行機と燃料を失い、
24日の夜から27日の午前10時まで、空港は機能停止しました。
(特攻全史 財団法人特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会編纂による)


ところが米軍側の証人に全く同じことを語らせておきながら、ナレーターはそれを全く無視。
驚くべきことに、

「アメリカ側の記録によれば、飛行場は翌25日には稼働したということです」

と、事実無根の捏造までやらかしているのです。



この番組には先ほども触れた生存者の田中賢二氏がインタビューに答えています。
しかし田中氏が縷々語ったであろう、国のためにと死んでいった戦友に対する想いについては、
全く触れられてもいません。

ディレクターはおそらくこう聞いたのでしょう。
「この作戦が大戦果に結びつかなかったのはなぜだと思われますか?」
田中氏はそしてこう答えます。
「そもそもあの時期になっては、全てが無理だった」

制作者はこの言葉を舌舐めずりしながら番組の「決め文句」として採用します。
この部分の流れを書きだしてみます。

(ナレーター)
アメリカ側の記録によれば(飛行場は)翌25日の午前中には稼働したということです。
しかし、(このしかし以降が全く逆説になっていないことに注意。
おそらく、この部分を書いたライターは、その矛盾に全く気づいていないと思われる))
結果的に後に続くはずの特攻総攻撃は天候不良のため、
目的を達することができませんでした。

(空挺隊玉砕の地と書かれた標柱が映し出される。
標柱はぼろぼろで、勿論スタッフによる献花もされていない。
しかも夜間撮影され、真っ暗な中にそれが幽霊のように浮かび上がるカット。
次のシーンで田中氏が登場し、語る)
「そもそもあの時期になっては、全てが無理だった」


その昔、メディアは義烈空挺隊の成功だけを麗々しく、しかし
義号作戦自体の失敗については糊塗したままで報道を垂れ流し、
あたかもその作戦が戦局の雌雄を決したような書きぶりで国民を幻惑させました。

今、その同じメディアは、死の任務に就いた一人一人の想いを全て憐憫で塗りつぶし、
史実すら素知らぬ顔で捏造までして、作戦は失敗で全ては無駄だったと嘆息して見せるのです。

なぜか。
彼らの目的は戦死者の慰霊などではなく、ひたすら「日本」を弾劾することにあるからです。





「日本ニュース」の企画であった大峯淑生氏と、カメラマンの故藤波次郎氏。
沖縄出撃が決まってから、寝食を共にして取材していた二人の宿舎には、
隊員たちがウィスキーなどを手に、入れ替わり立ち替わり訪れてくるようになりました。

皆が、自分の生い立ち、家族構成、故郷の山川のことを聞いてもらいたがり、
遺書や遺品を彼らに託す者もあったということです。

カメラのファインダーを覗かせてもらい、
「映ってる、映ってる」
と無邪気な声をあげた士官もいました。

「隊長の訓示が終わって愛機に向かって行くときみんなニコニコ笑ってねえ。
わたしもほうぼうのの特攻隊に撮影に行ったけど、
そのような悲壮感、全然ない、この部隊は。

ずっとこう飛び立っていく、夕暮れのところをね、だーっと機が見えなくなるまで回して。
本当にね、助手も録音係も、ぜんぜん口きかないで、三分か五分か・・・
じーっと、一点、飛び立った方向を眺めてましたねえ・・」


戦後義烈空挺隊について何かを語ることができるメディアの人間がいるとすれば、
この大峯氏ら日本ニュースのスタッフを置いて他にないのではないでしょうか。