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1945年ドイツ、アウシュビッツとキールのトロイメライ

2012-05-19 | 音楽

ロベルト・シューマンの「トロイメライ」をご存知でしょうか。
「子供の情景」というピアノ曲集中の第7番目、最も有名な曲です。

シューマンという作曲家は、良くも悪くも感覚的すぎるというか、
ベートーヴェンやブラームス、バッハの
ドイツ3Bの皆さんなどの作風とは、全く対極。
「思いついたから書いた」的なある種重みのなさとともに、
思い付きだからこそ生まれる鋭い美的感覚あふれた、
きらきらした詩のような音楽を迸るように書いた、というイメージです。

音楽関係者、ことにオーケストラのメンバーと話すと、
「演奏していてイライラする作曲家」のナンバーワンとして、
(楽器にもよりますが)まずシューマンの名が挙がってきます。

「なんでこんなところでこんな旋律をこの楽器にやらせるの?」
「いや、これ全く効果ないんじゃない?」
「難しすぎて弾けない。絶対これ何も考えずに書いてるだろ」

シューマンのピアノ協奏曲の中には、オケ全体で奏でる
壮大なゼクエンツのメロディに、
たった一本のオーボエで
果敢にも立ち向かうが如き対旋律が書かれている個所があり、

オーボエ奏者には全く気の毒なことに、このメロディ、
大音響にかき消されて全く聞えません。


これなども、何のためにオーボエ一本にメロディを任せたのか、
或いはシューマンはその時、オーボエ奏者と喧嘩でもしていたのか、
と勘繰りたくなるような部分です。

つまりオーケストレーションの基礎が全くなっとらん作曲家なのですが、
たとえ構築力は無くても、その素晴らしい感性と感性と感性で、
音楽史に残る音楽家となりました。

曲を聴いていると、もしかしたら少し精神的に問題が?

(実際に精神を病んでいた)みたいな、
それまでの常識ではありえないメロディの終始、突然変わる曲調、
そして、聞いているだけでは拍がどこにあるのかもわからない斬新な旋律は、
まさに天才の作品。

はっきり言って紙一重の天才そのものだったシューマンの、おそらく最高傑作。
それがこのトロイメライです。

「夢」と題されたこの小曲は、わずか数分の間に聴く者を夢路へを誘い、
その中に広がる宇宙は、無限の広がりを見せ、誰しも持っている
「懐かしい瞬間」へと、時空を超えて連れて行ってくれるのです。

この曲に付いての強烈な印象を残す話があります。

それは以前

「マリア・マンデル~アウシュビッツの女性看守」

という項を書いたときに参考にした
フランス系ユダヤ人のファニア・フェヌロンという女性の書いた本

「ファニア、歌いなさい」

の中の逸話でした。

ある日収容所所長のクラーマーが、音楽棟を訪れ、音楽を所望しました。
ユダヤ人絶滅収容所では、囚人ばかりで編成されたオーケストラがありましたが、
彼らに行進の伴奏をさせたり、コンサートをさせたりするほかに、
収容所の幹部たちは時折こうやって個人的に音楽を聴きに来るのでした。

「さあ、一仕事終わった。ちょっとくつろいで、音楽を聴くとしよう」

彼が、この日リクエストしたのは「トロイメライ」でした。

バイオリンが柔らかく第一小節を奏で、やがてメランコリックな旋律が部屋を満たしていく。
クラーマーは両目を閉じ、音楽の海に浸っているようだった。
完全にリラックスし、さっきまでの人殺し作業をすっかり忘れているかのようだった。
イレーヌのほほはヴァイオリンを押さえ、それでもかすかな微笑を湛えながら、
ソロの部分を見事に弾いていた。
曲の最高に美しい部分である。
メランコリーが心をとろかすような甘さに支えられ、
旋律の一つ一つがクラーマーの心を
揺り動かしているのが見えるようだ。

音は最後に少し高まり、やがて名残を残しながら静かに静かに消えた。

クラーマーはゆっくり目を開いた。
私はうっとりとした彼の目に涙があふれているのを見て、思わず息をのんだ。
涙は、真珠のような玉になって、美しく剃り上げられたほほを伝わっている。
こん棒で頭を割られたユダヤ人の女性の仲間がこれを観たらどう思うだろう。



わたしはこの曲を「習った」記憶がありません。
もしかしたら習ったこともないかもしれません。
いつこの曲を知ったかの記憶も無いままに、
いつの間にか「簡単に弾ける曲」になっていました。

この曲の素晴らしいのは、格別難しい技術を必要とせず、
初心者でもその気になれば弾けてしまうほど容易な曲でありながら、
同じメロディに対する和声を変化させて作る緊張や曲の盛り上がり、
その展開の鮮やかさが余すことなく盛り込まれており、
即ち名曲に必要な要素を全て持っているという点でしょう。


冒頭の絵は、今からお話するある海軍技術士官の姿です。
窓の外には、バルト海の冬の景色が広がっています。
海軍士官の名は友永英夫技術中佐
遣独潜水艦作戦でドイツから日本にU234で帰国途中、
ドイツの降伏に接し、同行していた庄司源三技術中佐とともに
艦内で自決を遂げました。

 

三国同盟締結の以前から、日本とドイツの技術交流はありました。
しかし、日独伊防共協定が1940年に日独伊三国同盟に移行、
さらに翌年にはこれが軍事協定になってからは、日本はドイツに視察団を派遣し、
その結果、武器と技術交流を一層深めることを推し進め、
日本が熱望する形でそれは進められました。

ドイツに必要なのは兵器に使う生ゴム、錫、タングステン、キニーネ。
日本は軍需機器とその製造権を主に求め、当初は艦船を利用して交流を行っていました。
しかし、連合軍が優勢に転じ、両国の艦船数が減ってきたため、
その輸送は潜水艦に頼ることしか手段が無くなってきたのです。

これを遣独潜水艦作戦といい、1942年からドイツ降伏の1945年5月まで行われました。
独海軍には大型潜水艦が無かったので、日本海軍が伊潜を使ってその任にあたったのですが、
潜水艦で地球を半周するこの計画は、無謀とも言える危険なもので、
五次にわたって行われたこの作戦ではこの5隻のうち無事に帰国できたのは一隻だけでした。


先日お話ししたMe163型ロケット戦闘機・Me262型ジェット戦闘機のエンジン、
そして設計図を輸送していた呂号501潜水艦は、その戦没によって、
それら日本が切望していた技術と共に、ドイツの潜水学校で学んだ優秀な回航員たち、
そして、何よりも海軍精鋭の四人もの技術士官が失われることになりました。

潜水艦技術士官である友永英夫中佐らが遣独潜水艦に乗り込むことになったときも、
この作戦に生還の見込みがあまりないことを、彼らは覚悟していたでしょう。

伊29でヨーロッパに着いた友永中佐は、八か月の滞欧を経て帰国命令を受けます。
U234の出国を待つ間、乗り組みのドイツ人中尉ヘレンドーンと庄司、
そして友永の日本人二人は、キールの町での時間つぶしをすることになりました。

街の映画館ではロベルト・シューマンの音楽伝記映画
「トロイメライ」が上映されていました。
この映画の音楽の美しさに友永はいたく感動した様子だったということです。

ドイツの士官は音楽に通じた者が多く、戦艦「ティルビッツ」には大砲と共に、
脚を固定されたグランドピアノと箱型ピアノが二台搭載されていたと言いますし、
友永たちの駐留していた兵舎の食堂にもピアノがありました。

ヘレンドーン中尉がそこに積まれていた楽譜の中から「トロイメライ」を
(おそらく先ほど述べた理由で、容易に弾ける曲だから)弾いたところ、
友永は顔をあげ、

「いい曲ですね。私に弾き方を教えてください」

と頼んだのです。

友永中佐は、音符も読めず、勿論ピアノに座ったこともない人間でした。
無理だと言ったにもかかわらず、かれはどうしてもと譲らず、
彼らに日本語を教わっていたヘレンドーン中尉は、
しぶしぶと言った形でレッスンをすることになったのでした。

几帳面なドイツ人らしく、まず彼は友永中佐のために五線紙を作り、
子供にするように鍵盤に紙を張り、弾き方を教えたのです。
すぐに降参するだろうというヘレンドーンの予想に反し、
友永は納得いくまで質問を繰り返し、丸一日ピアノから離れませんでした。

ヘレンドーンは、それをただ見ているだけの庄司中佐と共に
一日中格闘する友永に付き添い、質問を受け、手取り足とり教えながら、
ぎくしゃくしたトロイメライにしばらく耐え続けました。

しかし、彼らの驚いたことに、友永中佐は最終的に
トロイメライを弾きこなすことができたのです。

「こんな美しい曲に出会ったのは初めてです」

そう言いながら、バルト海を望む粉雪のちらつく光景をバックに、
背中を丸め、夢中になって弾き続ける友永の姿を、
ヘレンドーンは今も忘れることができないと戦後語ったそうです。

U234は、Me163型ロケット戦闘機・部分品に分解された
2機のMe262型ジェット戦闘機、ウラニウム鉱石560キロなどを
日本に輸送する予定でした。
帰国する友永、庄司両中佐はこのU234に乗り込みますが、その航路途中、
ヒトラーの自殺、そして日独間の同盟が破棄されたニュースが伝わります。
Uボートの父、デーニッツ司令官は、降伏、停戦指令を発し、
ドイツ人たちはそれに従い武装解除を行いました。


しかし日本はまだ戦闘が継続しています。
武器と重要資料を携えて戻ることを望んだ友永中佐は、
当初日本に自分たちを送り届けることを強く要請しましたが、
結局艦長はそれを拒否しました。

二人の海軍中佐は、自分たちの帰国が叶わないと悟ると、
重要書類を破棄し、遺書をしたため、
ベッドの最上段に二人で横たわったまま、ルミナールを服用しました。

狭いベッドで発見されたとき、抱き合うように横たわる二人は
まだ昏睡状態にありましたが、U234が米艦船の手に落ちる前に、
彼らの遺志を尊重した艦長の判断で、二人は軍医の注射によって命を絶たれ、
海に葬られました。

二人の自決を知ったとき、Uボートの全員に衝撃が走りました。

ドイツの降伏は軍人として無念ではあるが、生きて国に帰ることができる、
これがほとんどの乗員の感慨でした。
艦長が日本に行くという友永中佐の願いを拒否したのも、
上からの命令に反してまで危険な海をくぐる必要はないという
合理的なドイツ人ならではの決断だったと言えましょう。

しかし二人の自決を知ったとき、彼らはまた震えるほどの感動を覚えました。

技術中佐、なかでも潜水艦の専門家であった友永中佐には、
自分の死のついでに連合軍の手に渡らないように
Uボートを破壊してしまうこともその気になればできたはずなのに、
乗組員と同乗者を救い、ただ自分たちだけが死にゆく道を選んだからです。

その死の潔さ、高潔な、しかし誰でもできるわけではない選択。
死を以てまで己の任務に忠実であろうとする日本人に対する
畏敬の念がU234を深く満たしていきました。

しかも、このような死を選んだ彼らが兵科ではなく技術士官であったことも、
彼らドイツ軍人にとってたいへん衝撃的なことであったのだそうです。

その死のわずか二か月前、友永中佐が「トロイメライ」を弾いた、
北ドイツのキール市には、現在Uボート記念碑メモリアルホールがあります。

入り口の記念板には、Uボートで命を絶った
友永英夫、庄司元三両海軍技術中佐の名が刻まれており、
ドイツ海軍による詞によって、その名は永遠に顕彰されています。



ところで、この二つの印象的な、トロイメライにまつわる逸話は、
奇しくも全く同じ時期の出来事であったことに今気付きました。



参考:「深海からの声」Uボート234号と友永英夫海軍技術中佐
    富永孝子著 新評論

    「ファニア歌いなさい」ファニア・フェヌロン著 徳岡孝夫訳 文藝春秋