さて、台南でどこに行こう?
のんきな我が家は台湾についてからそんな相談をし始めたわけですが、
そのときわたしはかねてから知っていた「八田ダム」に行こう、と提案しました。
日本が統治するまでは文明の及ばない「化外の地」であった台湾。
原住民が住んでいるものの、農業などはとんでもない、
そもそもこの地には作物を作るにも水がなかったのです。
ここにダムを造り、この地方を水で潤し、田畑はもちろん貯水池や養殖池の
いたるところに見られる肥沃な土地に変えたのは、
他でもない、統治していた国日本の土木技術者、八田與一でした。
日本人にはあまり知られていない、しかし台湾南部の人々の、いや台湾の恩人、
この八田さんの造ったダムを観に行こう!
一も二もなく提案は決議され、最後の滞在の日、ここを訪ねることになりました。
台南から車で二時間はかかるだろうといわれたので、
最寄りの駅まで行って駅前からタクシーに乗ることにしました。
これがダムの最寄、隆田(ロンジン)駅。
ところでこの隆田といい、高雄、新竹、空港のある松山、
台湾の地名は、なんとなく日本っぽいと思いません?
それもそのはず、これらの地名も皆日本人が付けたもの。
たとえば高雄ですが、地元の人間が「打狗」(ターコウ)、つまり
「犬を叩く」という音を聞いてそれに充てた地名だと言われています。
日本人が「たかお」と読むのを台湾人は「ガオション」と発音します。
松山は「ソンシャン」ですが、「マツヤマ」といっても通じます。
隆田の駅前。
このひとつ前の駅で間違えて降りたのですが無人駅だったので、
駅前にロータリーがあってタクシーが留まっている程度には開けた町のようです。
日本にもこんな町ありそうですね。
何かが違う、と思ったら駅前にパチンコ屋がないことでした。
台湾にもパチンコ屋は無いではありませんが、ごくわずかです。
さて、この画像の左に写っているタクシーに乗り込むことにしました。
そうではないかと思ったけど、運転手は全くと言っていいほど、
英語は勿論日本語もわからない人でした。
しかも、こちらが中国語がしゃべれないのがわかっているのに、
確信的配慮の無さで中国語をためらいもなくしゃべり続けます。
わずかとはいえ中国語を勉強したことがあるエリス中尉ですが、
これだけべらべらと(しかもたぶん訛りあり)しゃべられては、
単語の一つも聴きとることができません。
おっちゃんの言うことは無視して、とにかく、地図を指さし、
「ここへ行きたい」=「ウォーシャンチウチャーリー」攻撃をただ繰り返すのみ。
すると、おっちゃんうなずいてまた平常のスピードでペラペラやりだします。
これは後から考えると
「お客さん、どこに行きたいんかは分かったっちゅーねん。
もしダムに行って観光するんやったら貸切料金でええんかて聞いてんねん。
そーやーかーらー、もうそれはわかったっちゅうに」
みたいなことを大阪弁で言っていたのではないかと思います。
まあしかし、日本人の親子三人が来てタクシーに乗りダムに行きたいと言えば、
それは観光に違いない、と常識で考えればわかるというもの。
おっちゃんも全く通じないままに「じゃ貸切ってことでええんやな?」と納得したようです。
ま、つまり観光は言葉なんて全くわからなくても何とかなる、ってことですね。
車窓からの景色。
おっちゃんはガッツ石松の弟、って感じの、どちらかというとコワモテの風貌で、
はたしてこの人に人気のないダムなどに連れて行かれても大丈夫なのかどうか、
疑うわけではありませんが、ふと今まで聞いたことのある「外国旅行での犯罪例」
などが頭をかすめました。(失礼だな)
それはTOも同じ思いだったようで
「このおじさん、大丈夫かなー、少し人相悪いんだけど」
などと、本人の横の席で、わからないと思ってこんなことを言います。
言葉が通じない同士って、お互い何を言われているかわかったもんじゃありません。
ダムと言うからには山の中にあるのだと思い込んでいたのですが、
行けども行けども(といっても駅から10分くらい)こんな平地が続きます。
すると、写真に取り損ねましたが、大きな車専用のゲートがありました。
どうも病気らしい毛がボサボサの犬が、首輪をしてうろうろしています。
ここでまたゲートのおばちゃんが全く配慮の無い超ハイスピード中国語攻撃。
「ここで入場料払うんだって言ってるんじゃない」
「それだけ言うのになんでこんなに大騒ぎしているの」
「うーん、運転手の分も払えとかかな」
そうこうしていると業を煮やしたおばちゃんが電卓に金額を打って見せるので、
(一人105元?)
「最初からこうしてくれればいいのに」
とこちらも日本語で言いながらお金を払いました。
タクシーのおじさんは、ここでもらったパンフレットを指さし、
「ここと、ここと、ここに行けばいいんだろ?」と念押ししています。
ここで、相変わらず車に関することにかけては先の読めないTOが、
「帰ってもらって歩いて回ろうか?ホテルみたいなのがあるからご飯食べて、
帰るときにはさっきのゲートのおばちゃんにタクシー呼んでもらえばいい」
と、まるでここが箕面のハイキングコースであるかのように言うので、
「そんな簡単に歩いて移動できるとも限らないし、
タクシー呼ぶのにまた、あのおばちゃん相手に大騒ぎすることになるから、
このタクシーにずっと回ってもらった方がいいと思う」
とそれを止めました。
結果的にはあまりに広く、移動にも車がないと無理だったので、
広大なダム敷地内を車で移動しながら、またもやわたしがTOに
「ね?だからあの時車を帰さない方がいいって言ったでしょ」
と威張るはめになりました。
わたしだって、威張りたくて威張っているわけじゃないんですけどね。
最初の見学コースがいきなりお墓と八田與一の銅像です。
さっき供えたばかりと言った風な花と煙草、お菓子など。
いったいどんな人がこのようなお供えをするのでしょうか。
外代樹というのはとよき、と読み、八田與一の夫人です。
夫亡き後、ダムに身を投げて後を追いました。
なぜ墓石の文字が赤字なのかはわかりませんでした。
八田夫妻の墓の横にあったのは、この小さな墓石。
「技師中島力男氏の分髪」
と書かれています。
中島技師は、東京農大出身で、八田の引いたダムによって
穀倉地帯となったこの地で、計画給水による蓬莱米の生産に
その力を注いだ、やはり日本人でした。
かれは終戦後もここに留まり、台湾のために尽くしました。
嘉南地域の人々は、この中島技師に対する感謝も忘れてはいません。
そして、TOが墓石に額づいてお祈りしていますが、
その墓石の手前にこのように八田像があるというわけです。
なぜか、赤い「立ち入り禁止」のラインが両側に立てられていました。
中国人が台座に乗ったり、像に手をかけたりして写真を撮るのでしょうか。
あの連中の写真を撮るときのナルシストぶり、ご覧になったことあります?
思いっきりポーズを決めて、まるで映画スターみたいに表情を作って、
傍で見ているだけで日本人は恥ずかしくて目をそらしてしまうのですが、
・・・まあ、両手でピースサインしないと写真が撮れないらしい日本の女の子も、
かなり外国ではバカにされていそうな気もします。
クリスマスシーズンのせいか、いたるところにポインセチアがありました。
八田與一の像はここを見下ろす場所に座っています。
この蒸気機関車はベルギー製。
ダム建設のために購入されたものですが、
八田がダム計画を進めるにあたって最重要視したのは、
このような最新の高価な機材を海外から確保することでした。
それは総予算の一割を必要としたと言います。
土木機材のすべては八田自身がアメリカに行って自分の目でそれを確かめ、
全てを購入してきました。
この蒸気機関車は砂、資材、および作業員、住民を運ぶための交通手段でした。
はった、ではなく「はた」と書いてあります。
虫プロの制作した「パッテンライ!」(八田が来た)というアニメの
DVDを買って帰りましたが、それによると
台湾人は八田を「パッテン」と呼んだようです。
そういえばわたしの知り合いで中国駐在の方も、面と向かっては
日本読みで「ナカタ」(仮名)と呼ばれているけど、従業員同士では「チュンティン」
らしい、と言っておられました。
烏山島ダムは1920年に着工され、1930年に完成。
実に10年の年月をかけて出来上がりました。
このダムは「セミ・ハイドロリック・フィル工法」という、
八田與一オリジナルの工法で造られています。
八田が偉人と称えられるのがここで、この工法は、
「コンクリートを土台の一部だけに使い、その上から土砂を掛け、
そこに水をかけ続け、こうやって細かい土砂を下に落としていき、
ダムの基底を落ち着かせて固める」
という独自の方法でした。
この工法の利点は、底にコンクリートを使わないため、
ダム内に土砂がたまりにくいことだということです。
八田が、この地方の地質を知悉(一応シャレ)したうえで編み出した工法で、
これはのちにアメリカの土木学会に論文が認められています。
このダムは、正式名称「烏山東ダム」、しかし、学術名が「八田ダム」
とされるゆえんです。
アジアで、この工法で造られているダムはここだけ。
台湾の国宝に指定されており、さらにはいま世界遺産に申請中だそうです。
巨大な土木機材の一つ。
なにしろこの工事は、かかわったものが最初は戸惑うほど、
気宇壮大なもので、当初は皆機材をどうやって使うのかさえ
わかっていなかったといいます。
アメリカから派遣された技師は、総じて有色人種を蔑んで、
技術指導のためにやってきながら、ろくに使いかたを教えようとしません。
八田は日本人と台湾人の部下をこう叱咤しました。
「覚えるのは簡単だ。外人の鼻をあかしてやれ」
ダムの堤。
堤防の幅は9メートル。
標高66,66メートル、(低いですよね)
長さ1273メートル、高さ56メートル(標高と10メートルしか差がない)
ダムの底幅は303メートル。
このダムが、嘉南平原を水の無い荒れ地から穀倉地帯に変えました。
わたしたちが堤防を見学している間ぶらぶらしている運転手さん。
ここを観終わって、連れて行ってくれたのが、八田與一記念館。
この記念館は2001年に完成したそうで見学コースの一つ。
入ろうとしたら、誰もいなくて鍵がかかっていました。
すると、運転手さんは携帯で電話して、係を呼んでくれました。
ドアに貼ってある紙に
「御用事の方はここに連絡してください」と書いてあったようです。
おっちゃん、ありがとうね。
待っている間、その横にある貯水口を見ました。
アニメ「パッテンライ!」では、主人公の台湾人少年が、
ダム完成の際、八田技師に勧められてこの貯水口のハンドルを
開けるシーンがありました。
ダム放流の際、ここから非常に激しい勢いで水が噴き出します。
そのことからここは珊瑚飛瀑とも呼ばれています。
1997年に新送水口が完成し、ここは現在使われていません。
噴水のように聳える美しい尖塔は、
送水管内の水圧を安定させるために造られました。
この先からまさに噴水のように水を出して調整しました。
記念館の入り口のガラスのモニュメントには、
八田與一が夫人の外代樹と最後に撮った写真が使われています。
八田はダム工事完成の功を認められ、勅任官の地位を与えられていました。
武官で言うと、中将、少将が与えられるのと同じ高等官待遇です。
1942年5月、八田は南方開発派遣要員として、フィリピンに向かいます。
この写真は、軍服のような高等官の制服を身に着けた八田が、
おそらくは台北の自宅を出るときに夫人と撮ったのではないでしょうか。
八田が乗った「大洋丸」。
八田はフィリピンの綿作のための灌漑に必要なダム建設のために、
その適地を調査する役目を帯びてこの船で現地に向かったのでした。
しかし、1942年5月8日、出港してすぐ五島列島沖を通過中、
「大洋丸」はアメリカの潜水艦に撃沈されました。
八田の遺体は一か月後の6月13日、沈没現場からはるか離れた
山口県萩市沖合で漁師の網に掛かって発見されました。
享年56歳でした。
八田の葬儀の模様。
八田は外代樹夫人との間に二男六女の八人の子供をもうけています。
それにしても、外代樹夫人はじめ、白装束に身を包んだ
八田につながる女性たちの美しいこと・・・・。
夫人は日本が敗戦した直後の昭和20年9月1日、
夫がその心血を注いで作り上げたダムの送水口に身を投げ、自殺します。
次回、その外代樹夫人のことをお話しします。