所用で北浜へ行ったついでにすぐ傍にある適塾を見学してきました。
適塾jは、天王寺からは地下鉄御堂筋線で淀屋橋まで行き、日本生命ビルの北側通りを東(北浜方面)へ向かって400~500m行ったところにあります。
「適塾」
適塾は蘭学者・医者として知られる緒方洪庵が1838年(28歳の時)に大坂・船場に開いた蘭学の私塾で、正式には適適斎塾(てきてきさいじゅく)と言います。
この名称は緒方洪庵の号である「適々斎」が由来で、適々塾とも言われています。
初めは医学中心の塾を目指したようですが、徐々にその色が薄まり、次第に蘭学の基礎教育を重視する塾となっていきました。
その理由は世情が変化していたことで、世界の変化を感じ取っていた洪庵は、蘭学を通して世界のことを理解できる幅広い人材を育てたいと考えて、それまでの塾のスタイルを変えていったところ、さまざまな人材が集まるようになったそうです。
塾生の中には、後に有名になる人物が多くいましたが、中でも福沢諭吉は特に有名な塾生でした。
他にも長州藩士の大村益次郎や、安政の大獄で刑死した橋本左内、箱館戦争の幹部であり維新後は政府の役職などにも就いた大鳥圭介、同じく箱館戦争に軍医として参加し、維新後は窮民医療の分野で多大な業績を残した高松凌雲らが適塾出身者の有名な人物です。
・適塾です。石碑には「史跡緒方洪庵舊宅(旧宅)及塾」と書かれています。
1階の奥が洪庵の家族の住居です。
塾生は2階で起居していました。
塾生の勉強は他の塾とは比較にならないほど激しいものがあったということです。
福沢諭吉は自ら述懐して、「凡そ勉強ということについては、この上にしようも無いほど勉強した」と記しているそうです。
・中庭です。
・塾生が起居した2階の大部屋です。
・2階から見た適塾の中庭です。
・当時の井戸がそのまま残っています。
適塾の西側に造られている史跡公園です。
「緒方洪庵」
緒方洪庵は備中足守(現岡山市足守)の生まれで、文政8年(1825年)に来坂して中天游(なかてんゆう:江戸時代後期の医師、蘭学者)に学びました。
その後、長崎での蘭学修行などを経て天保9年(1838年)、大坂・船場に蘭学の私塾『適塾』を開き、弘化2年(1845年)現在の場所にある商家を購入し大いに発展させました。
洪庵自身も、大坂で最初の種痘を実施するなど医学者としても活躍しました。
・公園の中央には緒方洪庵の銅像が建てられています。