らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

浪華八百八橋

2015-04-12 | 地元紹介

江戸時代、大阪は、「江戸の八百八町」「京都の八百八寺」と並んで、「浪華(なにわ)八百八橋」と呼ばれていました。
これらの言葉は、本当に808ヶ所の寺や橋があるのではなく、それくらい寺や橋が立ち並んでいたことの比喩的表現で、実際の数は江戸の約350橋に対して、大阪には約200橋ほどしか架けられていませんでした。

では、なぜ大阪が八百八橋の町と呼ばれていたのでしょうか?
それは、「誰が橋を架けたのか?」にあるようです。
即ち、江戸の橋は、約350橋の半分が公儀橋と呼ばれる幕府が架けた橋でした。
一方、大阪では、公儀橋は「天神橋」「高麗橋」などのわずかに12橋で、残りの橋は全て町人が生活や商売のために架けた「町橋」でした。
町橋に対する幕府からの援助はなく、町人たちが自腹を切って橋を架けたもので、その町人たちの勢いが、「浪華の八百八橋」と呼ばれる所以なのだそうです。

今日はその八百八橋の中から、北浜近くにある4橋をご紹介します。

「今橋」
大阪の金融中心地・北浜に架かる町橋です。
町橋としては規模が大きく、たもとからは尼崎方面へ通じる乗合船が出ていました。
橋の名称は、元和から寛永年間に「今新たに架けられた橋」という意味で付けられたとされています。

・橋 長   68m
・幅 員   9m
・橋 種   鋼桁
・完 成   平成6年



「八軒家浜」

八軒家浜(はちけんやはま)です。
名称の由来は、江戸時代に八軒の船宿などが軒を並べていた事からと言われています。
現在の船着き場は平成20年(2008年)に整備されたもので、この川沿いの道の先、奥の橋「天満橋」の手前にありますが、古くから熊野詣の陸の起点として、或いは三十石船の発着地として賑わった八軒家浜は、大川より少し南、土佐堀通りのあたりにありました。
この辺りは京都と大坂を結ぶ淀川舟運の要衝として栄えたそうです。

・天神橋から眺める八軒家浜です。


「高麗橋」
東横堀川に架かる公儀橋です。
橋名の由来は、朝鮮半島からの使節を迎える迎賓館「高麗館」から付けられたとする説や、豊臣秀吉がこの地を朝鮮との通商の中心地として定めたことに由来するなどの説があります。
高麗橋筋には元禄時代から三井呉服店(三越百貨店の前身)や三井両替店をはじめ様々な業種の店が立ち並び、橋の西詰には幕府の高札が立てられていました。
明治時代には里程元標(りていげんぴょう)がおかれて、西日本の主要道路の距離計算は「ここが起点」と決められていたそうです。

・橋 長   62.5m
・幅 員   11m
・橋 種   RCアーチ
・完 成   昭和4年



「天神橋」
江戸時代の文禄3年(1594)に公儀橋として架けられた橋で、天満橋・難波橋とともに「浪華の三大橋」として親しまれてきました。
天満天神社が管理をすることから、この名が付いたそうです。
大塩平八郎の乱の際、反乱軍を抑えるために幕府がまず三大橋を壊したことからも、その重要性がうかがえます。
現在の橋は、松屋町筋の拡張にあわせて1934年(昭和9)に架け替えられたものです。

・橋 長   210.7m
・幅 員   22m
・橋 種   鋼アーチ
・完 成   昭和9年


「難波橋」
江戸時代は幕府直轄の公儀橋でした。
天神橋、天満橋とともに「なにわの三大橋」と呼ばれ、大坂の八百八橋を代表する長大橋です。
この橋は「浪速の名橋」50選に選定されている橋で、大阪弁では「なんにゃばし」と発音します。
現在の橋は、橋の4隅にライオンの像が置かれていることから「ライオン橋」の愛称で親しまれています。

・橋 長   187.15m
・幅 員   21.80m
・橋 種   連続合成桁 鉄筋コンクリートアーチ
・完 成   昭和50年




「難波橋のライオン像」
難波橋の4隅には、阿・吽2体ずつのライオンの像が置かれています。
彫刻家・天岡均一氏によるもので、高さ約3.5m、重量約18t、花崗岩製の像です。


ライオン像のほかにも、市章を組み込んだ高欄や華麗な照明灯など、創造性の溢れるつくりとなっています。


なお、元禄の橋と明治の橋(明治18年)の地図にリンクしておきます。
関心のある方はアクセスください。
http://www.kkr.mlit.go.jp/osaka/commu/road_dat/bridgemap.html