ゆずりは ~子想~

幼い葉が成長するのを待って、古い葉が譲って落ちることから名付けられた「ゆずり葉の樹」。語りつがれる想いとは・・・

チップス先生さようなら

2006年01月11日 | これも自分あれも自分
先日某N●K局で、映画「チップス先生さようなら」を放映していた。うろおぼえの映画名であったが、どこかで聞いたことがある。映像を見る限りでは、最近撮影のもののようだが、原作は恐らく古いものだったという記憶もあった。印象的な映画というのは、途中から見ようと、何の気なしに見ようと関係なく、人の心に訴えてくるものがあると思う。

この映画も、そうだった。朝起きたての眠い頭で、何の気なしに点け、ボーっと突っ立ったままで目を向けただけなのに、私は画面に吸い込まれて、朝食を作るのもそっちのけで見入ってしまったのである。
エリーがまだ眠っているのをいいことに、久しぶりに入り込んで見ていたら、流れる音楽や会話の調子に敏感に反応した夫が、がばっと起きるなり、テレビ画面を確認しに来た。そして、特に映画のタイトルを聞くでもなく、新聞を見て調べるでもなく、テレビの前にどかっと座って、この人もまた見入ってしまったのだ。

舞台は、19世紀。戦争が始まる前のイギリス。男子学校に勤めるチッピング(愛称チップス)先生の、学校での教えや職員のいざこざ、恋、学生、そして戦争のことを題材とした物語だ。イギリスらしい控えめのブリティッシュチェックのジャケットを、品よく着こなしている感じが、印象的。キレイな英語も。
今回放映されたのは、最近リメイクされた映画らしいが、最初は1969年に映画化されているようで、ビデオにもなっているみたい。

生きていれば、いろんな問題が生じてくるもの。学生からからかわれたりもするし、恋だって結婚だって、子どもだってできる。学校といえども職場。上下関係や内部のいざこざがあるのも当たり前だろう。そんな、今の私に想像でき得るヒューマンストーリーが続いていたのだが、途中で一変してしまう。

戦争が始まるのだ。
ここから私は、体験していないことであるがゆえ、いろいろな想像をしたり、置き換えたりしながら観ていた。そして、とても悲しくてむなしくて、どうしようもなくなってしまった。
近い将来、我が子や知り合いが戦争へ行く姿。
それを送り出すしかない自分。
帰ってくるのか、来ないのか。
生きているのか、死んだのか、行方不明なだけなのか、捕虜になったのかさえわからない。
所在の分からない体。
帰還したとしても、人間を殺してきたことへの罪悪感や恐怖感にさいなまれ、目の前で吹っ飛んだ戦友たち、人の体の一部がまぶたの裏に鮮明に浮かび上がり、眠れぬ夜が続く地獄のような苦しみに、一生抜けられない。
はがそうとしても、はがれない皮膚のように、密着した苦痛。
支えたくても、力の及ばぬ自分に歯がゆくなる家族。
苦しさだけ。
そう、戦争をしても、末端の私たちには苦しみだけしか残らない。

著書「こんな日本に誰がした」と、戦争をする国になってから出す本なんて、やめて下さい。
今の私に、いったい何ができるというのだろう。

広告