三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

平安初期の土木工事

2007年06月29日 06時35分22秒 | 歴史探訪

よく「築地塀」という呼び名で残ってきている建築の部分がありますね。
あれって、どのように造作するのか、と疑問に思っておりました。
で、以前に「胆沢城」の発掘現場に建設された歴史資料館で、
ごらんのような模型に出くわした次第。
とはいっても、寸法は半分ですから、縮小版なんですが、
人物の身長など、バランスは考えられているので、
非常にわかりやすい。
築地というのは、そのものズバリで、土を築き固めて作る土壁。
この模型は志波城跡に残された痕跡から工事手法を復元したのだそうです。
京都の御所とか、多賀城など、律令制国家の政庁機能には
この築地塀が欠かせなかったようです。
ほぼまっすぐに規格的に内と外を遮断するこういう壁は、
わかりやすく「律と令」に基づく国家規範を表していたのかも知れませんね。
まつろわぬひとびとにとっては、抗いがたい権力意志を感じたことでしょう。
建築の発展は、こういう権力の意志明示というのが
大きな動機になるでしょう。

築地の下幅は240cm。想定される高さは390cm。
工夫~こうふ~の身長は150cmを想定していると言うこと。
建築の材料や工法が未成熟な時代、
こういう建築物がいかに巨大さを示威するものか、迫ってくる。
胆沢城の場合、築地の総土量は41,067立米、
延べ16,000人以上の人手が必要だったとされている。
東北北部地域に対する征服戦争に、いかに注力してきたのか、
ひしひしと身に迫ってくる感じがいたしました次第です。
コメント
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