三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

三内丸山の大型建築

2009年03月15日 09時37分36秒 | Weblog



さて、歴史民俗博物館取材で、しばらく歴史ネタは大量の取材在庫がありますので、
いくらでも取り上げられることになっています(笑)。
っていうか、通常の仕事関連のブログのほうが
触れなければならないテーマが多くあるので、
とても紹介は無理ですね。
写真撮影点数は、360点もあり、そのどれもが興味津々のもの。
自分自身の中でも、まだまだ整理統合できていないものばかりです。

ジオラマが興味深い、ときのう書きましたが、
さっそく目に飛び込んできたのが、
青森市郊外の「三内丸山」大型建造物復元ジオラマ。
ここには2~3回足を運んでいる記憶がありますが、
まさに「縄文の都」「国のまほろば」とでも呼ぶにふさわしい景観。
物見のやぐら建築がシンボリックですが、
縄文の都市、って呼ぶことに異論が出ないほどの大型建築が印象的。
その建築がどのように使われていたか、
現代最新の知見を動員して、ジオラマ表現しています。
建築の連なり、大きさから、どう考えても
千人を下らないひとたちがこの縄文の都で暮らしを営んでいた。
活発な交易活動を営む基礎の港が、ごく近くに迫り、
同時に海の動物性タンパクは豊富に消費され、
栽培されていたと推定される「クリ」が炭水化物の最たるものだったでしょう。
そうした植物性食物は2階に植物繊維で編み上げた袋や容器に貯蔵され、
多くの大型土器に、海山の幸が豊富に貯えられていた。
むしろを敷いて、いろいろな作業を分担しながら、
「都市的生活」を営んでいたに違いありません。
よく見ると、麻のような線維を編み上げた服を着ている。
衣食住というけれど、服を作るというのも人間の基本的労役。
女性の基本的な労役が機織りであるのは、
洋の東西を問わない。女性がファッションに敏感であるのは、
たぶん、こういうDNA的な部分での経験記憶が預かって大きいのではないでしょうか?
こういう大型コロニー、まぁ、都市と呼んでいいでしょうけれど、
その運営は、どのような社会システムで行われていたのか、
農耕社会が普及する中で必要性が高まった「文字数字表現」直前の段階で、
いったいどのように社会が運営されていたのか、
文字がないので、それを知るよすがは残されてはいませんね。
しかし、確実に写真のような共同体が営々といとなまれていたのは疑いない。

それと、「交易」というのは、
人類が出現してからずっと、営々と行われてきたことも間違いがない。
どう考えても、人間の本然の姿の中に、モノを交換して
自分たちの価値感を向上させたい、という欲求があると思います。

まぁ、こういうジオラマひとつに
実に多くの知見が集約されて表現されていて、
飽きることがありません。
生きた歴史・民俗のあたりまえの姿が克明に見えてきますね。



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