三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

家系記憶のなかの瀬戸内海

2013年12月06日 06時50分42秒 | Weblog


わたしの家系は瀬戸内海に面した世界にながく生きてきた系譜を持っています。
確実性の高い江戸期の資料では、広島県東部の福山市周辺に居所をたどることが出来る。
室町から戦国期以前には、兵庫県姫路周辺の「英賀」にも痕跡が残っている。
そこからさらに道後温泉周辺の愛媛県にまで、想像ではさかのぼれる。
南北朝の時代には、愛媛県地方で南朝方として組みしていたという伝承もある。
どこまでの信憑性があるのか、そういった証立てにはあんまり興味もないのですが、
さりとて、先祖様がどのような心的世界に生きていたのかには
深い興味を持たざるを得ない。
いずれにせよ、写真のような瀬戸内海世界が天地だったようです。
これは、福山市郊外の「鞆の浦」の「福禅寺」迎賓館からの眺望。
この鞆の浦は、瀬戸内海の海流が東西で出会うという海の要衝地だそうで、
江戸時代を通じて「朝鮮通信使」が往来を重ねていた。
その使節のための「迎賓館」をこの寺の敷地に造作したということです。

日本人にとって、日本史にとって、
やはり瀬戸内海世界というのは、ながくメインストリートだったのだろうと思います。
魏志倭人伝ではないけれど、この風景の多島海ぶりは
日本人の心性に刻み込まれたようななにかの訴求力を持っている。
というふうに思うのは、やはりご先祖様への思いの成せる業でしょうか(笑)。
この朝鮮通信使迎賓館からの眺望に対して
朝鮮側から「日東第一」の景観であるという絶賛の声が記録されています。
かの国では日本のことを日東というように呼ぶようですね。
また、天皇という呼称について、中国ではそのまま天皇と呼ぶのに
「日王」というように、儒教思想的に一段下げた呼び方をしつづけているそうです。
朝鮮、韓国の人々にとって、日本という存在は歴史的に悩ましい存在なのでしょう。
自分たちは、細心の注意力を持って超大国・中国の動向に配慮し続けてきたのに
隣国である日本は、そういう意識からは比較的自由であった。
また、歴代の中国王朝からも、相対的に独立性の高い国家存在として
認識され続けてきたという点でも、大きく意識し続けなければならなかった。
要するに、鬱陶しく悩ましい距離感を感じ続けてきた国なのでしょう。
半島国家として、列島国家は中国王朝に対しての態度では
うらやましいけれど、さりとてそれを認めてしまえば自らの存在感に疑念が生ずる。
呼称ひとつ取っても、なにやら屈折を感じる。

そんなないまぜな思いを抱きながら、
この風景の中に浸っておりました。
しかも、見えている島には、「皇后島」という名前が付いているのだそうです。
その皇后とは、朝鮮と戦争したとされる「神功皇后(じんぐうこうごう」なのだそうです。
このあたりも、きっと朝鮮使節には気に入らないネーミングだったに違いありません。
しかし、多島海ぶり自体は朝鮮南部の風景とも親近感が感じられたでしょう。
そういった東アジアの歴史交流が、ほんのちょっとした話題からも立ち上る。
まことに北海道のような新開地とは、
その時間感覚に大きな違いがあると思い知らされます。

コメント
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