きのうの「上時国家」の内部の様子です。
江戸時代末期のこの家の様子が保存されているということ。
「上」「下」というように「時国家」は2家に分かれていますが、
この分離には、江戸期の複雑な政治状況が反映されているようで、
そうした支配構造の変化に柔軟に対応できるだけの「情報力まで含めた実力で、
この家は生き延び続けてきたようなのです。
経済については、ひたすら農本主義を貫徹して
大きく隆盛する商品経済・資本主義に対して否定的な態度を取り続けた
江戸幕府政権は、地方の「庄屋」や国内交易を支えた商人たちを経済主体にして、
それに乗っかっていただけの存在のように思われます。
平家に出自を持つこの時国家も、そうした地域経済の運営者であったようで、
地域の中での「公共」をも担う家だったようです。
写真には、高い位置に「駕籠」が納められています。
家の当主なりが使うためと言うよりは
公共的な利便として、用意しているという印象を持ちました。
今日で言えば、新幹線のような交通手段として、
貴人・公人のための用意を、このような庄屋層がしていたと推定される。
2層吹き抜けの大土間空間にそんな残照を感じました。
そしてこのような富貴は
やはり北前船交易によってもたらされたと思われます。
江戸幕府政権によって
大きさや構造について船の進化は制限されている中で、
不可欠になっていった商品交易の拡大は、その資源供給基地になった
北海道蝦夷地との北前船が大きな経済動力になっていた。
農本主義による、ひたすら土地への課税収奪だけしか見なかった政権に対して
賄賂などの手段を活用して生き延び続けてきたのでしょうね。
しかしそれにしても、
平安時代の終末期から、鎌倉・室町・戦国・安土桃山・江戸と、
変遷し続ける時代変化の中で、柔軟に対応し続けた時国家には驚きます。
さらには、昭和を代表するロッキード事件の裁判長は
この時国家が輩出したのだそうです。
名門としての矜持が、その背骨にあったのかも知れません。
生き延びるという魂魄において、
「家」というものに、並々ならぬものを感じざるを得ません。
そういう意味で、家を取材しつつ歴史を感受する
わたし自身のスタンスに、エネルギーをいただいた気がしました。