三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

【鹿島神宮「神鹿」奈良の都への集団移住イベント】

2020年02月24日 07時57分45秒 | Weblog


きのう鹿島神宮と香取神宮のことを書いたら好評の様子。
ということでコメントへの返信としても書いたのですが、
鹿島神宮境内で見かけた「神鹿縁起譚」からのスピンアウトテーマ。

神社の縁起というのは神代のお話しなので
その信憑性をあれこれはしにくいのですが、
この東国の神社は「国譲り」説話に於いてヤマト朝廷側に立って
出雲大社の勢力に強談判して政権移譲を実現したということになっている。
たぶん、古代の権力闘争に於いて東国の産土神が大きな役割を果たした。
実際に軍事出征して出雲側がその兵力差を悟って和議としたのでしょう。
そこで「宮中での四方拝」の対象にいまでもなっているのでしょうか。
そういえば鹿島の国宝「直刀」は全長約3メートルで奈良時代の作と伝わり、
国内最大最古の直刀として有名であり、また鹿島は剣法の流儀としても有名。
武神とされる祭神をいただくので、このあたりの経緯が頷ける。
で、この武神を出雲に遠征させるべく説得に当たったのが「鹿の神霊」とされる。
「天照大神の使者、天迦久神(アメノカグノカミ)は、鹿の神霊だったとされ
これに因んで、鹿島神宮の神使は鹿とされるようになった。」と縁起にある。
そして後代、この武神を奈良の都造営と同時に開闢した「春日大社」の
祭神として勧請したとされる。そのときに東国の鹿島から奈良まで
1匹の白鹿にご神体を背負わせた上で、従者の「神鹿」たちが集団移住した。
東京の江戸川区には「鹿骨」地名が移住痕跡で残っているとのこと。
「地名の由来〜奈良時代(8世紀)藤原氏によって奈良の春日大社の創建に際し、
常陸の鹿島神宮から分霊されたがその際に多くの神鹿を引き連れて
およそ1年かけて奈良まで行ったと言い伝えられており、その途中、
鹿が死んだためこの地に葬った。これが「鹿骨」の地名由来。」
そして奈良の地に至って、その鹿たちが「神鹿」として根付いたとされる。
奈良の都創建時期は奥州からの産金や、その前時代からの人口増加もあって
空前の好景気社会だったとされる。その都に大量の鹿の群れがやってくる。
その道中でのアナウンス効果も含めて、人心を躍らせたに違いない。
大仏開眼式典には、世界中から各国皇太子なども参列したという。
東アジア世界に日本という国家を強く印象づけた時期。
そういうなかでも神鹿の愛らしさは宣伝力としてかなり強力だっただろう。

わたし的には、この時期の国家意識の高揚政策や、そのための
さまざまなイベントを仕掛けた手腕、構想力にうならされる。
推測すればこうした政策立案、遂行で藤原氏が勢力を拡張したとも思える。
とくに春日大社は、藤原氏の氏神色の濃い宗教施設として創建された。
現代に至るその後の日本社会での「奈良の神鹿」効果は抜群のものがある。
たぶん、この鹿の大群の上京は一大イベントだったのでしょう。
その後「鹿島立ち」させた側の鹿島神宮では鹿が絶滅したか減少したようで
奈良に行かせた神鹿をカムバックさせてもいるということ。
奈良の時代の空気の中を東西往復した神鹿たちが演じたアナウンス効果に
深い興味を覚える次第であります。

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