三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

【心にしみる地域の山並み景観】

2019年10月01日 07時25分49秒 | Weblog
最近のこのブログ執筆で強力な「協同者」をしてくれている
Shigeru Narabeさんからはいろいろな写真データ発掘提供があります。
深く感謝する次第。高校時代からの旧知。
若干恨まれ気味の学生運動つながり(笑)以来であります、懺悔。
わたしがブログを書き始めてから旧交をあたためている。

で、先日送ってくれた明治初年の札幌の写真、
たぶん明治4年撮影のようですが、
開拓本府・札幌都市建設初源時期の写真を発掘していて
ごらんの写真を掘り起こしてくれた。
「よく見るとかすかに藻岩山のスカイラインが見えます」
「あたり前ですが、山容が変わらないのが何だか心に染みます。」
・・・その通りなのであります。
写真は創成川という名前のその意味合いが深く刻み込まれた
札幌の開拓・街割り当時の基幹物流大動脈人工河川から、
西側を見晴らしたアングルで撮影されています。
街並みの風景はまったく違うけれど、この見慣れた山並みは変わらない。
「国破れて山河あり」という叙景句が日本人には馴染み深いけれど、
時間を超えて変わらない山には、深く癒されるものがある。
きっとこの列島に人間が住み始めてからずっと、
こうした「山岳信仰」というものが連綿とあり続けているのでしょう。
だれもがこういう風景をこころに持っている。
あ、東京は不明(笑)。富士山の遠景や丹沢山系くらいでしょうか?
この藻岩山体には札幌に長く住みつづけていて、つたわるものがある。

開拓以前の札幌市付近は豊平川が形成した広大な扇状地であり、
豊平川はいくつもの分流を形成していた。
創成川は1866年(慶応2年)に幕府(箱館奉行石狩役所)役人・大友亀太郎が
札幌村を開く際に開削した用水路・大友堀が前身。
札幌に物資を搬入する場合、石狩川から豊平川を遡上し、
そこからこの人工河川をさかのぼらせたということですね。
先日紹介した写真でも、川原に大量の木材が堆積された様子が映っていた。
後にこの川に橋を架けたときに「創成橋」と名付けられたことから
川の名前も創成川と変更されたのだとされています。
いずれにせよ、札幌人にはソウルフルな河川名として記憶されている。
しかし、川は人工の手がどんどんと加わっていくので、
「山河あり」というコトバ本来の意味の継続は難しいかも知れない。
いまは創成川は南北の大動脈道路として変貌している。
人間の手が加わりやすい、というか創成川の場合は最初から
人間が開削した人工河川ということもあって、
その姿は時代の変化に即応して変化して行く必然。
やはり、山岳信仰のほうが永続性がある。
日本人であることを深く実感させられた写真であります(笑)。

<画像がややうっすらだったのでヘタなPhotoshop加工しています。>
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