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三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

宮城県名取市・閖上まちカフェ

2011年09月20日 06時33分09秒 | Weblog





きのうは朝一番で札幌から仙台に移動。
本日仙台で座談会の企画があって、その司会進行をしなければならない、
ということで、絶対に前の日には仙台に入っていたい、
そういうミッションがあったのですが、
2週間くらい前にチケットの手配をしたら、
なんと、朝一番便以外は全席満席。
むむむ、と思って「まぁいいや、そうしたら、月曜だし仕事に使おう」
と気軽に予約を入れたのです。
それからふと確認したら、この日が休日だということを発見(!)。
わたしのMacで使っているスケジューラーでは、
日本の休日を表示しないのです(泣)。
でももうやむを得ない、ということで仕方なく日程はそのままに。
ということで、休日の仙台に降り立った次第です。
でもまぁ、それなら、ということで、
前から「来てください」と言われていた
JIA東北支部がやっている「名取市・閖上まちカフェ」に顔を出してみた次第。
そういうことなので、事前にはまったく情報を仕入れていませんでしたので
さて、行けるのか、わかるのか、
と不安でしたが、スタッフが一生懸命調べてくれて、
無事に探し出すことが出来ました。
で、写真を撮っていたら、JIA東北支部災害対策委員長の
松本さんが、やってくるではありませんか。
「お久しぶりでした」「あらまぁ」
というようなことで、聞いたら、
きょうはジャズ演奏のボランティアと、カレーのふるまいを計画している
ということ。
まぁそれまでの時間に最近の様子などを情報交換できました。
名取閖上は、名取川の河口から津波が上っていって、
ここはまさに壊滅的な被害を受けた地域。
周辺にも、あまり住宅は残っていませんし、
この閖上から仙台港に向かう道はいまでも途中から通行止め。
このカフェになっている建物は、地域の公民館だったところを
JIAが借り上げて、地域復興のための情報センターとして活用しています。
この建物の壁には、2mの高さで来た津波のあとがくっきりと残っています。
残念ながら、仕事の段取りもあって、
事務所に向かったのですが、JIAの活動、頑張っているようです。

仙台空港はほぼ震災前の状況に戻りましたが、
その周辺の交通状況、道路状況はまだまだ復旧しませんね。
復興計画についてもいろいろ情報交換しましたが、
どうも今回の震災復興、どのようにやるか、方針が見えてこない。
地域に丸投げに近い政府の対応が、見えてきますね。
確かに、お金の問題が解決できないので、進められない側面はあるでしょうが、
それにしてももう少し、機動的に進まないものか。
関東大震災の時のことも見てみたら、復興計画が明確で
それと、方針も明確になっていたと思います。
まぁそのただ中にいるわけですから、
少しでも良くなるように努力するしかありませんね。
みんなそれぞれ、できることで頑張りましょう。
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原発事故とコメ

2011年09月19日 05時31分56秒 | Weblog






きのう、少し安堵できるニュースがあった。

一般米、初出荷へ=会津坂下と矢祭の福島県2町
 福島県産の一般米が東京電力福島第1原発の事故後、初めて出荷される見通しとなった。会津坂下町のJA会津みどりが20日、同町産米の等級検査を実施し、出荷に必要な手続きを終える。
 放射性セシウムの検査の結果、会津坂下町と矢祭町で収穫されたコシヒカリなどの一般米からセシウムが検出されず、福島県が出荷を認めた。

っていうニュースです。
たぶん、福島県でも会津のほうは距離もあり、
大丈夫なのではないかと見られていたけれど、
やはりセシウムは検出されなかった。
いろいろな意見があり、原発問題への対処は難しさが募るけれど、
しかし、被災した福島県の復興にはその地域にある産業、基本にある農業の振興が
絶対に必要です。
仕事があるかないかが、決定的に重要。
そう考えれば、まずは確実な安全性を担保しながら、
具体的に、何が可能か、ということを積み重ねていく必要がある。
日本人にとって、やはりコメの生産が可能かどうか、
というポイントは、歴史的に見てもきわめて大きいポイント。
未曾有の原子力災害をいま、わたしたちの社会は経験しているけれど、
そこから、原爆の広島長崎がみごとに復興したのと同じように
原発事故の福島が、ふたたび立ち直れるかどうかは、
民族にとって、ものすごく大きな体験になっていくと思う。
現に起こってしまったことに対しては、それを克服するしかない。
その過程の重要な一歩が、このコメの問題だと思います。
コメがどういう被害分布状況であり、それが産業再生可能なのかどうか、
現実の正しい認識を、正面から見つめなければならない。
たぶん、ここ数日の間にも、結果が明らかになっていくことでしょう。

最近の歴史研究で、東北地方は一度、
平安期において、稲作農業の北進を放棄した経験があるといわれています。
そもそも仙台平野や秋田平野、岩手県南部地域のような
比較的温暖な地域は別にしても、
それ以外の広い範囲の、とくに夏の気候が不順な太平洋側地域では
コメというのは、適地とはいえなかった。
それなのに、コメを基本にした国家社会であるヤマト国家は
強制的にそうした国家経済を押しつけ続けた。
それが、うち続いた歴史的な東北地域の飢饉の連続の社会条件になっていた。
それに対して平安期の寒冷化が、米作の放棄をもたらせた、というのですね。
現代では、品種改良の結果、寒冷地でも優秀なコメが実現して
それこそ、北海道がコメの適作地にまでなっていますが、
過去の日本の歴史全体では、こういう基底条件が大きかったのですね。
平安期には、こうした条件がいろいろな社会変化を生み出す原動力になったと思われる。

今回の原子力災害は、1300年以上前のこうした民族経験ともオーバーラップする。
やはり、固唾を飲んで注目していかなければなりません。
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マンモスハンターたちの家

2011年09月18日 07時18分39秒 | Weblog





先日行ってきた網走市の「北方民族博物館」。
時間がなくて、駆け足での見学だったのですが、
ずいぶん、いろんな知見を得られたなぁと思っています。
現生人類というのは、アフリカに出現して
そこから、世界各地に移動していったというのが定説。
肉食の開始が、人類の大脳の発達を進めた、という説もある。
そういう意味で、極地にまで活動範囲を広げていく
「北方民族」というのは、
人類進化の最前線部隊だったと思える。
マンモスハンターという言葉に強く興味を持ちます。
まぁマンモスを本当に求め続けていたのか、
というのには、異説も多いのですが、肉食の対象として
北方世界に存在する大型動物、海生動物も含めて
狩猟採集することを生活の糧としてきた人々、という意味でしょう。
その象徴がマンモスハンティングであった。
先日紹介した「雪の家」も、そうですが、
そうしたかれらは、寒さをどのように克服してきたのか、
どんな住まいをかれらは開発してきたのか、
そういった興味はまことに尽きることなく湧いてきます。

日本の「高断熱高気密住宅」というのは、
伝統的な「木造軸組工法」に対して、それをどのように
暖かい家にできるのか、ということに取り組んだ結果の工法。
そういう意味では、こうした北方民族の住まいとは
その成り立ちの根本が違うようですが、
しかし、その中にはいろいろな知恵が存在するはずだと思います。
そういった知恵を、フィードバックさせるのも
意義が深いのではないだろうか。
そんなことを漠然と考え続けております。
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久しぶり2日酔い

2011年09月17日 14時36分54秒 | Weblog





きのうは久しぶりに気の置けない知人と
カラオケその他、痛飲しておりまして
年甲斐もなく、極度の2日酔いになってしまいました。
で、先ほどまで仕事の打合せで会議。
きっと、スタッフのみなさん、迷惑だったと思われます。
ごめんなさい、許してください。
お酒って、わたしはあんまり強くはありません。
本当に付き合いだけなんですが、
きのうは気がついたら朝方になっていました。

ということで、
なにやら言い訳めいていますが、要するにブログの更新が
こういう時間になってしまったという次第です。
きのうは講演だったのですが、
やはり、体力目一杯にやるので、
それからの開放感がお酒の酔いに向かってしまったというところ。
深く反省しております。
でもまぁ、なんとか、会議は要領よく進行できて
おおむね大成功でありました。
きのうの講演には、わたしのブログを見た方も来られて
終了後、いろいろなお話しが出来て楽しかったです。
講演って、結局は来てくださったみなさんにどれだけの印象を持っていただけるか、
ということだと思います。

きょうは、だいぶ疲れが来ているので、
これにて失礼。ではでは。
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梨田監督退任

2011年09月16日 07時09分47秒 | Weblog





きのうは久しぶりにわがチームの戦いをテレビ観戦。
ここんところ、仕事の方がチョー忙しいのと
チームも負けが込んでいて、精神衛生的に辛くて
テレビでの観戦も自重しておりました。
かなりの重症のファンでありますね(笑)。
野球なんで、勝ったり負けたりするのは当たり前なんですが、
やはり負け続けてくると、
日常生活もあるので、どうやって精神状態を維持するか、
ひとそれぞれでしょうが、わたしの場合、情報遮断という
まぁ、我ながら子どもっぽい自衛手段で対処しております。
こういうのは、本当の意味ではファンではないとは自己批判しつつ・・・。

なんですが、
ついに監督の進退記事まで出てしまっておりました。
で、どういうことかなと思ったら、
そういったチーム成績とは関係がなく、
どうも、監督自身からの申し出のようで、
ことしの成績にかかわらず、年当初から、退任したかったようです。
かれに託されてきていたミッションとの関連で、
燃え尽き症候群を心に抱いていた、ということ。
どんな局面でも笑顔を絶やさず、
選手個々に対する配慮を十分に感じる采配で、
きっと「育成」ということをチームから相当に強く申し渡されてきたのだと思う。
そういうなかで、結果がすぐに出てくる選手もいれば、
そうではない選手も抱えて、
本当に、睡眠薬がなければ寝られない状況が続くのでしょうね。
梨田監督になってからのファイターズ、
まずは、ダルビッシュの完全本格化が第1に上げられますね。
そしてそれに続く、武田勝・ケッペルの本格化。
外人投手ですが、押さえから先発への配置転換に成功したウルフの活躍。
そして、投手個々の適性を見極めての救援投手陣の整備。
武田久の守護神抜擢とその成功。
左のセットアッパー、宮西君の成長。
今期救援投手陣の充実ぶりは、まさにすばらしい。
捕手出身の監督として、投手陣はまことにすごい成長を遂げた。
野手陣でも、糸井・陽・中田というように外野の陣容を育ててきた。が、
今シーズンは、まさにチームの核になってきた田中賢介のケガによる脱落が大きい。
とくにことしは、守備の要の金子誠選手が体力の衰えから
若手や、外人内野手の補強でまかなって闘ってきている。
戦力として考えれば、田中賢介の脱落はかけがえがない。
球団でも生え抜きの田中賢介は、本当の中心と考えてきたのでしょうね。
二遊間が臨時的な陣容では、思ったような野球は難しい。
たぶん、この精神的重圧が梨田さんには厳しかったことと、思います。
二遊間をどうするのか、
田中賢介が厳しくなったらどうするのか、という
チームにとっては数年先と思っていたことが、早すぎる形で出てしまった。
まぁ、そんなことを考え続けながら毎日野球をやっていたら、
睡眠薬どころか、精神疾患でも発症しかねません。

そういったなか、
きのうは打てない打線で、綱渡りのような試合。
二遊間、とくにセカンドの「助っ人」の守備不安による
緊張感に満ちたハラハラの戦いぶりでしたが、
なんとか、この「特別の日」の戦いに勝利した。
これから、ある意味では重しが取れた状態で、
のびのびと野球が出来るのか、
あるいは、緩慢なプレーが続出するのか、
やっぱり、手に汗をにぎりながら、応援しなければなりませんね。
深く反省しながら、頑張ります。
・・・あ、でもきょうは、講演会だった!
頑張れ、梨田監督! 
頑張れ北海道日本ハムファイターズ!

<写真はまったく話題とは無関係な津軽富士・岩木山です>
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明日は札幌で講演会をやります

2011年09月15日 06時47分08秒 | Weblog





あした16日に、以下のような要領で講演会を行います。

「いま考える北のライフデザイン」
~和風トラディショナル×SAPPOROスタイル~
夏を旨とする本州以南に対して独自の発展をしてきた北海道の住宅、
これからどこへ?
●主催:(社)北海道建築士会札幌支部
参加申込は下記まで(参加費無料!)
女鹿建築設計事務所/TEL.820-6520 FAX.820-6521
E-mail:CQA02432@nifty.com
●開催日時:平成23年9月16日(金) 18:00開場 18:30~20:00
●会場:内田洋行北海道支社内イベントスペース「U-cala(ユーカラ)」
/札幌市中央区大通東3丁目1番

っていうような次第であります。
なんか、地元で講演するのって、はずかしい(笑)。
そのうえ、パンフレットには今どきなのに、
経歴書きまで載っかっております。
わたしはススキノとか、ほとんで行きませんので、影響はごく軽微。
まぁ、ほとんど逃げ場はありませんね(笑)。
でもまぁ、しかたない、やります。
講演用のパワーポイントデータは、いろいろ推敲を重ねて
当日その時間になるまで、変わっていくことになりそうですが、
おおむねのアウトラインは固まっております。
住宅について、そこに住み続けてきている人間の立場に立って
地域性や、生活文化と人間の暮らしと住宅、という見方です。
なので、歴史や考古的な迫り方から、
人間の暮らしの入れもの、というふうに考えて、
そこから、今日的な北海道での住宅のありようを探ってみたいというもの。
SAPPOROスタイル、については、
これから、みんなで一緒に考えていきませんか、
という意味合いの方が強いのですが、
まぁ、迫ってみたいなと考えています。
建築の専門家、そういう教育を受けていない人間で、
でも住宅の雑誌を発行し続けてきて、
その継続してきた、動機のような部分なのでしょうか?
自分自身ではよくわからないのですが、
結局、人間の暮らしがものすごく興味深くて
その入れものから、それぞれの生きてきた痕跡が見えてくる。
住宅に住んでいる人に取材するように、
過去の住宅にも触れてみて、感じ続けることがあると思っています。

っていうようなことで、
本日は、ご案内でした。よろしく。
<写真は、北方民族の住まいです>
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ヤマボウシの実

2011年09月14日 07時15分30秒 | Weblog






会社社屋のシンボルツリーとして植えてある
ヤマボウシ。
ことしは、新緑から夏の白い花とずいぶん楽しませてくれています。
いい香りがたちこめていまして、
それに吸い寄せられるように、昆虫たちのコロニーも
あんまり歓迎できないものも含めて(笑)、
いろいろに出来ております。
きのう朝、ふと気付いたら、
ハチがいろいろな種類のヤツが飛んでおりまして、
かれらは、この香りが好きなのか、
その根源である樹液が気持ちいいのか、
大きくは仲間である、アリたちといっしょになって飛行しています。
大型のヤツでは、クマバチはよく見ていたのですが、
なかにどう猛で知られるスズメバチも1匹発見。
近隣のどこかに巣があるのでしょうが、
あんまり来ては欲しくない、出来ればご遠慮したいところですが、
まぁ、様子を見ているしかないですね。
で、そんなことでヤマボウシを凝視していたら、
なにやら、実のようなものを発見。
サクランボのような形状なのですが、
ごらんのようにイチゴのような表面でもある。
とりあえず発見したのが2つだったのですが、
右側のヤツは、何かの虫に食われて裏側は空洞になっております。
暑い暑い、といっていた今年の夏も、
こんな証拠品を見ていると、やはり秋に近づいてきている。

ほんの小さな植栽スペースですが、
このヤマボウシばかりではなく、ことしは
2本植えてある「カツラ」がズンズンと大きく成長して、
立派な樹影を見せ、そして大きな木陰を作ってくれています。
お隣さんに若干枝が伸びていっているのですが、
いまのところ、この木の緑や木陰を楽しんでいていただけているようで、
そういうお隣さんに感謝しています。
これから毎年、その生長にあわせて適度な剪定などの
メンテナンスを心がけていかなければならないなぁと
思っている次第。
「ほっておいたら、すぐに大きくなるよ」
って、知人からは忠告されておりますが、
木の成長を楽しみながら暮らしていけるっていうのは、
なんとも本当に楽しい限りだと思っています。
この木の実のように、ときどき、はっとする体験までさせられる。
家庭、と日本語では言うわけですが、
家には(ここは事務所ですが)庭がやはり似合うなぁと思いますね。
願わくば、このようにメンテナンスしている庭付きの
しかも性能がよくて、メンテナンスもきちんとされているような
そういう住宅は高値で取引されるような住宅マーケットに
なっていって欲しいと念願します(笑)。
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三内丸山の大型竪穴建築

2011年09月13日 07時15分47秒 | Weblog





先日青森に行ったとき、やはり足が向いたのが三内丸山です。
ほかのどんな建築や住宅よりもやはり見たい。
っていうことで、しっかり見て参りました。
で、建築に関係しているのに、隣接した美術館には
行きませんでした(笑)。
どうも喰わずきらいなのか、近代的な建築には積極的な興味を持てない。
っていうか、少ない時間を考えた場合、
思い出すこともなかった、というのが正直な感想です。
でもまぁ、ことしはあと何回か、青森には行く要件があるので
そのときには、そちらにも見学の足を伸ばしたいと思います。

で、どうしてももう一回行きたい、と思うのは
この写真の「大型竪穴建築」を体験したい、ということなんですね。
前回までは一眼レフカメラではなかったので、
今回は、愛機になってきた一眼レフで、場合によっては
印刷原稿にも使えるような写真として収めてきた次第。
いまから4000年から5500年前に、
この建築は建てられているワケですが、
規模が壮大であります。長さ32m、幅10mというから、
面積が320平米。100坪近い大空間であります。
で、柱も梁も栗の木で、ごらんのような豪快な架構です。
わたし、実はわが社の新築の時に、
この空間のイメージがあって、こういうプリミティブな建築を
思い立って、検討を進めたことがあります。
掘っ立ての柱の存在感はものすごいものがある。
もうそれだけで、相当の精神性を空間体験として伝えてくる。
で、これが4000年から5500年前のひとびとからのメッセージなんですね。
これはもう、ただただ、立ちつくして身に浴びるしかない。
そんな思いを感じさせてくれる空間です。

はるかな時間を超えて、
こういう空間の意味を考えてみるのですが、
さてどういうことだったのか。
小さな竪穴住居群も存在することから、
一般的な意味の住宅ではなく、公共的な意味合いが強かった建築なのか?
集会施設や、宗教的催事のための施設、
それらの複合的な使用目的の施設、などなど、考えられるのですが、
こういう「社会」を前提に考えなければ想像できない施設が
縄文の時代に成立していたワケですね。
さらに、三内は亀ヶ岡遺跡などとの相関性もあることでしょうから、
縄文という時代は、一体どんな時代であったのか、
弥生の末裔の社会である今日とは、
かなり違った様相の社会性が現に存在していたのです。
その時代の空気の豊かさに、呆然とした昂揚感を抱く次第です。
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ことしの新米

2011年09月12日 06時21分31秒 | Weblog





最近、お米の売り場に敏感になっております。
ほとんどのひとがそうだろうと思いますが、
ことしの新米が無事に出荷されるのかどうか、
みんな固唾をのんで見守っているというのが現実でしょう。
政府による検査が行われている中で、
放射性物質の検査を通って、市場に出荷されていくのですから、
その正否に、関心が集中せざるを得ないのは当然といえば当然の事態。
いまは、早場米が出荷され、スーパーなどで見る限り、
福島県のお隣の、茨城県産米も出荷されているのを確認しました。
写真では千葉県産も出荷されていますね。
これから、福島も含めて東北地方のお米が出荷されてきます。

市場では、早々と昨年までのお米が売り切れてきていて
食べ盛りの息子がいるわが家でも、
10kgずつの袋で購入しているのですが、
前回購入、たぶん、10日前くらいですが、
そのときには10kg入りのお米は購入できず、5kg入りのものを2つ、
購入しておりました。
値段も、そういった思惑からか、
上昇を続けているようで、不安心理を掻き立てさせられる。
テレビ番組で「東北の食材は・・・」と話したひとのことも
話題になっている昨今。
石巻出身のある書籍編集者が、歴史関係の高山宗東さんという方を
口説き落として「いま、東北の歴史を考える」という本を出版された。
その本を寄贈いただいて、時間のない中で読み続けています。
北海道に生まれたわたしにしてみると、
たとえば、会津が受け続けてきた受難、日本の中央政府が
東北に対して向けてきた歴史的事跡の数々は、
深く、胸を痛めることばかりで、
この無知を恥じ入るばかり、という思いがしてきます。
とくに維新前後の薩長政府の東北への敵視・蔑視は目に余る。
しかし、伝統的に日本と東北の関係はこのような側面があったとも言える。
坂上田村麻呂以来の受難を、東北は受け続けてきた歴史。

ほんとうに、今回のコメ騒動、
大山鳴動してネズミ一匹になってほしいものと願っている次第です。
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城郭建築の美ってなんだろう?

2011年09月11日 07時36分05秒 | Weblog






写真は弘前城であります。
弘前は、明治以前の城郭建築がそのまま存続された稀有なお城。
司馬遼太郎によると、日本七名城に数えられている。
現在でも、弘前市街区を形成している中心であり、
市役所とかの施設もこの周辺に存在していて
津軽地方の中心地としての求心性を誇らしげに見せてくれる。
で、お城って、日本人にとってどういった存在であり続けてきたのか
そんなことを思いめぐらせることが、ときどきある。

江戸時代までの日本人にとって
城郭建築というのは、
基本的には軍事力を持ってその地域の民衆を支配していた
権力の象徴であったことは間違いがない。
そのはじめにおいてはそうだったことでしょう。
ただし、津軽の場合は、
戦国期において津軽為信が、南部氏からの独立を宣言して起こした
蜂起に、民衆の広範な支持があったと想定され、
基本的には下克上の権力争奪だったけれど、
その内部に、民族独立運動的な側面もあったに違いないと思われます。
そういう意味で、少しニュアンスが違っているかも知れません。
津軽の殿様の明治初年でのふるまい、
公共的な資産として提供を申し出たことなど、
民衆と権力者との間に、ある契約的な概念があった可能性がある。
ともあれ、そういう経緯でこの城郭は存続し、
市民に愛され続ける資産として、現にここに存在し続けている。
愛着という意味合いでは、弘前城には強いものを感じます。

建築的に見たら、
重厚な石垣による強固な基礎が力強い。
そして、鉄筋コンクリートと見まごう木骨+しっくいという
重厚な壁、そして、自由自在にデザインされた和小屋による屋根。
それらのバランスと、傾斜角度などで構成されている。
たぶん、デザインは屋根の秀麗さが基本になっている。
で、こういった要素が渾然一体になって、
長く日本人に根付いた建築様式美を体現し続けてきた。
きっと、日本人の基本的なDNAにブックマークされているに違いない。
っていうように思うのですが、
さてこのあたりは、だんだんわからなくなってきた。
現代でも、高校生の修学旅行ではこうした日本建築美は
刷り込むように教育の一環で行っているけれど、
若い年代のみなさんの中には、伝わっていくのかどうか?
よくわからないなぁとは思っております。
やぼったい、あったらもん、っていう心理があるのかも知れないなぁと
最近、思ってきております。
ただ、ここしばらくは団塊の年代が「毎日が日曜日」という
境遇になっていって、歴史がブームになりそうな雰囲気があるので
こういう様式美への感受性は維持されるだろうと思います。
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