三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

天皇陛下行幸直前の被災地

2014年07月21日 08時37分09秒 | Weblog


19-20日の二日間、約1年ぶりに陸前高田から石巻まで視察しました。
折から、22日からの天皇行幸を控えて、
随所にその予兆を感じながらの2日間でありました。

今回は盛岡で、東北フォーラムや北海道のソトダン21というグループなど、
全国の住宅技術研究団体4団体による合同交流例会。
その日程が19日前半まで組まれていて
午後2時過ぎ頃に終了後、北海道のソトダン21メンバーと同行しての道行き。
東北在住のメンバーを案内役にして、
住宅復興、地域復興の現状を見て回った次第です。
ルートは住田町でモデル的な住宅を見学後、陸前高田の状況視察、
そこから南下して気仙沼。1泊して、さらに南三陸、女川、十三浜、
最後は石巻の現状を視察するという岩手~宮城地域であります。
22日から天皇陛下は、1泊目南三陸、2泊目気仙沼と宿泊されます。
そのうち、2泊目に当たる気仙沼では、陛下の宿泊先と同じホテルに投宿。
途中各地で警備に当たる警察関係の車両が目に付きました。
震災後、3年半近く経って、世間の話題が沈静化しつつあるこの時期に
国民統合の象徴としての陛下の行幸は、
再度、スポットを当てることに繋がるかも知れません。
そうした成果を期待したいと念じます。
ただ、各地ではそのお迎えの準備などで緊張も高まっていました。

今回の視察でいかにも象徴的だったのが
写真の陸前高田の「ベルトコンベアー」の巨姿であります。
全的な津波被害を受けて、平野部ほぼ全域に、
周辺山地の土を掘削してこのベルトコンベアーで集積地に移動させるのです。
人類史上でも、そうは類例がないような事業が
忽然として出現していました。
多くのみなさんから疑問や否定的な反応が見られているようです。
そうした見方も理解は出来る部分がありますが、
現代の人命尊重と民主主義という社会の体制の中で、
そのとどのつまりの震災対応策として、
このような形になること自体は、やむを得ない部分があろうかと思います。
しかしこれは大変な自然改造であり、破壊であることは疑いがない。
陸前高田の市長さんは、決断に当たって大きな覚悟は持たれたでしょう。
そのことがどのような歴史的審判を受けるかは、
時間の経過を見ていかなければならない。
ベルトコンベアー設置稼働だけで120億円の巨費がかかるそうで、
一時的な利用だけのためにそうした巨費が投じられることに
大きな批判があるそうです。

しかし、「奇跡の一本松」だけがセンチメンタリズムの象徴になったとしても
地域としての陸前高田が力強く蘇ることにもならない。
行政府がなさねばならないことには、
批判を覚悟して勇気を持ってかからなければならないこともある。
そのとき不人気だとしても、社会のために必要なことを為すのが
政治の役割だというのも、厳粛な事実だと思います。
さて、このような光景が天皇陛下の行幸とともに
全国に情報発信されて、国民各層からどのような反応が出てくるか、
注目していかなければならないと思っています。
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鬼剣舞

2014年07月20日 08時18分14秒 | Weblog


おにけんばい、と読むのだけれど、
岩手県北上地方に伝わる民族舞踊であります。
きのう、盛岡南方の紫波町での住宅関係団体の会合で
余興として行われていました。
Wikkipediaでは、

念仏踊りに分類。正式には念仏剣舞のひとつであるが、
威嚇的な鬼のような面(仏の化身)をつけ勇壮に踊るところから、
明治後期以降(1897年(明治30年)頃)に「鬼剣舞」と呼称されるようになったとみられる。
(→ 下記、鬼剣舞伝承系統 - 岩崎系譜 - 御免町鬼剣舞の項参照)
かつては男性が演じることがほとんどであったが、
最近では女性の演じ手も増えている。

この踊りの独特の歩行に、修験道の鎮魂の呪術のひとつ
「反閇(へんばい)」がある。陰陽道で用いられる呪術的歩行のひとつで、
「大地を踏み悪魔を踏み鎮め、場の気を整えて清浄にする目的で行われる舞い」の要素と、
念仏によって御霊や怨霊を往生させて災厄を防ぐ
浄土教由来の信仰的要素が見られる。

というような出自を持っているとされます。
中世のころから行われてきているものには違いがないけれど、
いかにも、土俗的で体技に日本人的な特徴がよく表現されている。
能の本を読んでいたら、こうした体の使い方に
こうした芸能の楽しみが存在するという。
いろいろな伝統芸能があるけれど、
北海道の出自のわれわれには、
まことにうらやましい豊かさを見せつけられる思いです。
すばらしい。


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金沢兼六園をみる

2014年07月19日 07時03分03秒 | Weblog


江戸時代の大名庭園は、いろいろ見学して来ました。
岡山の後楽園、会津の御薬園、水戸の偕楽園、東京では浜離宮や清澄庭園など
そんな仕上げで有名な兼六園も見た次第。
そのなかの建築はそれなりに興味を惹くものもあったけれど、
しかし、庭園そのものについては
個人的にあんまり興味を持てませんでした。
そもそも最盛期に江戸市街の半分以上が、こうした大名庭園で占められていたという
そのことに、「なぜなのか」という視点・論点を見いだせない。
江戸というのは、新興の武家政治の首都として
諸大名が武装を解除して徳川家に忠誠を誓う参集地として造作された。
そこで各大名に用地を与えた、までは了解可能。
しかしそのかれらが、なぜ争うように庭園造作を行ったのか、
どうしても想像力が刺激されない。
歴史の本でも、「こういうのができました」とか
「日本の庭園の流れ」みたいな記述はあるけれど
その動機を解明するような意見は聞いたことがない。
まぁわたしの想像では、平和志向の高まった江戸時代初期に
各大名が、それぞれの国元での城郭建築をやめさせられて、
その財力を傾けさせるための「江戸の街づくり」の都市計画まで
負担させられて、いわば、江戸城建築のさらに派生的な
大名統制策の一環として、こういった庭園建設が奨励されたものか。
それにしてもなんとバカバカしいことに財力を傾けたことか、
と思わざるを得ない。
それに、庭園それ自体の魅力というのは、わたしには興味はないけれど
それにしても、これら各庭園に、どのような格付けがあったのか、
それがどのような意味合いを持っていたのか、などなど、
まったく理解出来ません。

ということなので、
これが天下の名園、兼六園か、という感慨も
まったく意味が不明と思ってしまう次第。
日本の歴史にとって、この庭園群はどういった意味合いがあるのか、
だれか、教えて欲しいものだと、いつも思っております。
っていうことで、本日は、怒れる中高年男ということであります(笑)。
たいへん失礼いたしました。



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葦船

2014年07月18日 04時58分10秒 | Weblog


写真は、新潟近郊の汽水地域の博物館で見た「葦船」。
カヌーなどに比べて大型の船が造作しやすかったことから、
環日本海地域での地域間交易に使われただろうと推定できます。
同様の環日本海地域北方の汽水湖地域・北海道オトンルイ遺跡などを見ても
古代の人々は、いくつもの船、通常使用の自家用車的なカヌーから
外洋航海用の大型船まで、自在に海の道を使って漁をしたり
交易をしたりしていたに違いないと推定されています。
その外洋航海用の大型船として、このような「葦船」が利用されたと思われる。
でも、その復元はここではじめて見た次第。
以下、カムナ葦船プロジェクト~太古の智慧をつなぐ旅~という
WEBサイトからの要旨抜粋。

葦船なら今も昔も同じ方法で大型の船を作ることが可能です。
ノルウェーの探検家トール・ヘイエルダール博士による、
「葦船ラー Ⅱ号」(1970)での大西洋横断、
「ティグリス号」(1978)によるティグリス川から
エジプトまでの航海をはじめ、
スペインの冒険家キティン・ムニョス氏による、

「ウル号」(1986)、「マタランギ Ⅱ号」(1999)の航海から、
葦船が大陸間の航海に十分耐えうるものであり、

古代において民族や文化交流の手段になっていたのではないか?
という可能性が既に示されています。
世界の人類学では、南北両アメリカ大陸の先住民は、

ベーリング海峡以外の移住ルートでも渡った事がほぼ確実とされ、

その多くは日本の縄文人やアイヌ民族ではないかとされています。
植物分類学では、多くの野菜や植物が古代人の移動に伴い
環太平洋各地に分布したとされています。
少なくとも10000年以上前にベネズエラ原産のサツマイモが
ニューギニアで食されていました。

また、縄文時代の土器と同じ模様のものが
中南米やポリネシアからも見つかっています。
10000年から6000年前、
縄文時代の海洋民族が
葦船で太平洋を航海したのではないかと考えられないでしょうか?
学術的な立証には、物的証拠が不可欠ですが、
残念ながら古代の葦船が発掘されることはありません。

なぜならば、植物である葦船は、その役目を終えると土に還る船だからです。

というようなことなのですね。
縄文時代人といえば、環日本海地域のみならず、
むしろ関東や東北、北海道地域が人口も優勢なワケで
そこから外洋へ、大型の葦船でアメリカ大陸を目指して船出するような
そんな人類的経験をかれらが行ったと考えるとクラクラする(笑)。
そうでなくても、
北海道が主要産地である鋭利な刃物として使われた黒曜石が
日本各地に「輸出」されている様子や、活発なものの交易実態が
証し立てられているワケで、その移動手段として
こういった葦船のようなものが役を果たしていたという想像は、蓋然性が高い。
そもそも汽水地域には、葦のような素材は普遍的に存在する。
先日も書いたように、日本列島は、海洋に対して水郷的な汽水地域が
関東などをはじめ、まさに列島を覆うように存在していたに違いない。
現代のわたしたちがすでに忘却してしまったけれど、
しかし容易に復元可能な、DNAに刷り込まれた想像力の方向性を
こんな葦船に強く感じていた次第であります。
現代のわたしたちよりも、むしろずっと自由に生きていたのではないか・・・、
ふと、重低音のようなそんな思いがよぎったりする。


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中韓との戦略的国家関係は?

2014年07月17日 06時40分34秒 | Weblog


中国での忌まわしい官許の「反日」暴力デモ、
韓国前大統領の竹島上陸、天皇謝罪要求発言以来、
経済的に台頭してきた両国による日本叩きが活発化した。
一方、70年も前のことで、ずっと「謝罪」させられ続けることに
日本の側でも屈辱感が沈殿し、「そこまで言われる筋合いはない」的な
反発の空気が大きくなって来た。
そこをとらえて、「軍国化している」という中韓の批判は、しかし受け入れがたい。
その原因は中韓による民族主義攻撃にこそある、と言いたい気分が支配的。
こうした気の重い国家関係に日本は現在、否応なく引き込まれている。
アジアは、歴史的にずっとこういう力関係が支配してきた世界であり、
日本はこういう関係が国民気質的にも、いやだった。
ただ、歴史的に見れば、古代の白村江敗戦からの数世紀は、
世界最強国家・唐の圧迫の中で、
「遣唐使」という名前の朝貢外交で生き延びてきたのも事実。
また陸続きである朝鮮国家は、度重なる被侵略経験から
対中国で事大主義の使徒となり、衛星国家であることに甘んじ続けてきた。
基本的に中華国家の盛衰によって国際関係は微妙に変化し続けた。
こういう東アジア3カ国の関係は、ほかのヨーロッパ世界とは
大きく異なる歴史を紡いできたのだと言える。
ヨーロッパ世界が血で血を洗うような戦争を幾度も経験する中で
「国際法」的な国家関係秩序観念を作りだしてきたような
そういった自立的な秩序は、東アジアでは育たなかった。
中華国家が常に「皇帝独裁・一党独裁」という非法治体制を続けてきたことが大きい。
あれだけの巨大国家では、法治は難しいのかも知れない現実がある。
これは日本にとって不幸であるだけでなく、
擬制的宗主国・中国にとっても大きな不幸だったのだと思う。
そして、明治以降、日本が「脱亜入欧」スローガンの元、
東アジア世界からの離陸をはかり、それが成功的に推進され
当時の「一等国」の普遍的なふるまい、植民地支配地域の獲得・拡大を
東アジア世界で行うという蛮行・愚行に至ったことは、
大きな反省教訓として、日本は肝に銘じ続ける必要はある。
そしてその被害にあった各国に対して、謝罪をすることは当然だと思う。
それが正視すべき「第2次世界大戦の戦後体制」であることは論を待たない。

しかし戦後、東西冷戦構造の中で
日本は、占領されたアメリカとの片側的な関係、属国的な関係のなかで
世界に立ち現れ、その枠内で行動し続けてきた。
東アジア世界は、東西冷戦構造の中で朝鮮半島地域が分断され
戦争も勃発し、日本はアメリカの戦略的要衝地域として
アジアでの不沈空母として、機能し続けてきた。
軍事バランスとしては外側から見れば
日本国内的には「非核3原則」遵守を謳っているけれど
アメリカは「どこに核兵器があるか、軍事機密」として公表しないのだから、
強大な軍事基地のある日本には当然核兵器はあると、
仮想敵国側は、そのように認識するだろう。したがって、
「アメリカの核兵器が存在し、米軍が駐留する」重武装でありながら
一方で日本国内的には憲法9条によって戦争を放棄する
空想的平和国家として存続し続けてきたというのが現実的理解。
戦後の日本は、突き詰めて言えば世界最強のアメリカ軍事力に守られながら
主観的には、諸国民の平和への希求によってのみ「守られる」
9条憲法を持つという、まるでホンネと建前を使い分けるかのような
「いびつな国家」であり続けた。
ようやくアメリカの一強世界支配体制が経済的に破綻を見せるようになり
米軍が今後も駐留し続けるかどうかすらも疑わしい情勢になって
その間隙を縫うように、経済力の向上した中国と韓国が
日本に対して別々の思惑で、しかし一致して反日外交を展開してきたのだ。

まことにむずかしい局面に日本の現実は置かれている。
やはり基軸は日米関係に置くのは安定保守を考えれば常識的な選択。
いまの韓国が取っているようなヤジロベエ的なスタンスは、日本にはありえない。
まさか、共産党独裁の異質な価値観の
いまの中国国家と戦略的基軸的な関係を結ぶことはありえない選択。
こうした地政学的な現状認識は、日本人はおおむね同意だと思う。
そういうなかでいかにして、中韓と平和的な関係を構築できるのか。
ことはそう簡単ではない。
しかし、そういった難しさの中で、それでも地道に努力するのが外交だろうと思う。
言うべきことはきちんと言って、しかし可能な限り冷静に平和的関係を志向する。
ふつうに考えてこのような対中韓国家戦略が、いま、妥当性がある。
どこまでも冷静に対処していくしか、日本には道はない。
しかしこれは「ふつうの国」の国民としてのよき鍛錬になるものかも知れない。
そう考えて対処するべきなのだろう。

ベトナム沖から中国の石油掘削装置が撤収したそうだ。
冷静な対応を見せてきたベトナム国家の姿勢は評価に値すると思う。


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Kindleがやってきた

2014年07月16日 06時34分27秒 | Weblog


返品OKキャンペーンとかで
10000円くらいのAmazonの電子書籍端末Kindle PaperWhiteが
30日間使って、気に入らなかったら返品しても良いです、
というセールスの案内がメールできたので
つい、「そういうことなら、チャンスかな・・・」と
Amazon商法に付き合って見ることにしました。
で、きのう写真の端末が送られてきた。

率直な印象。
iPadと比較すると、端末のレスポンスはイマイチではないか、という印象。
慣れていないのが大きいとは思うのですが、
ずっと電子書籍端末、どれにするか迷っていた身にすると、
もうちょっと、キビキビしていて欲しかった。
「これはやっぱりiPadだったかな」と思いつつも
無料本につられてダウンロードしはじめると
「お、古典ばかりだけれど、読まなきゃと思っていた本が・・・」
という浅ましい(笑)欲望がどんどん湧き出てきて
そして、やはり紙の本では得られない利便性に思わず、没入しています。
なんといっても、いちいち本を探して回る必要がない。
自分の好みの本をダウンロードしておけば、いつでも読むことが出来る。
時間の節約効果は計り知れませんね。
まずは、慣れることで、いろいろな古典的作品を読んでみて
その「読書体験」に基づいて、
これからの読書の方法を考えていきたいと思います。
ひとつは、圧倒的な利便性から知的体験の総量が豊かになることは間違いない。
この効果はたぶん、相当な破壊力。
小学校に電子端末を導入しての実験では、
顕著なレベルの「学習効果」が実証されているそうなので、
今後教育現場では、「争って」導入が進んでいくことが予測されます。
検索や辞書機能を使っていけば、学習が飛躍的に深まり理解力が増す。
これは火を見るよりも明らか。
たぶん、世の中的には8割はこうした方向で進む可能性が高い。
ただ、あと2割くらいの部分で、「宝物としての本」という
個人の尊厳にも似た「体験記憶」が再認識もされてくると思う。
さらにもうひとつ、紙の本には「中古本」という
ダウンサイズしたマーケットがあり、また図書館という
「知の福祉」的な機能を果たしている存在もあった。
電子出版では、このような社会的な機能は消えて亡くなっていくのだろうか。
その辺への検討が今後必要だと思う。

というような課題も見えているけれど、
「知のロングテール的な価値の発掘」というような新しい地平も
生まれ出てくるような気もしています。
どっぷりと研究してみたいですね。
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オオウバユリ

2014年07月15日 06時38分37秒 | Weblog


北海道に住んでいても、アイヌの人々のことを知る機会は少ない。
地域の歴史の断絶の中にいる感覚が強い。
和人たちは、この北の地を自分たちの世界観で染め上げて
「無から有を生み出した」ようにして暮らしてきている、といわれても仕方ない。
いつもそんな思いを心のどこかでしています。

そんな毎日を過ごしているわけですが、
毎朝の散歩の道端に、写真のような植物を発見し、
その植生場所がどうも拡大しているように思って見ています。
この北海道という地域は、自然的にこの植物が
繁茂しやすい「風土」であることの、身近な証なのだろうと思って
できるだけそうした自然を受け止めていきたいと思って見ています。
最初は1週間ほど前に、背の高いすっくとした姿で
数本に気付いて、立ち止まってみていたのですが、
きのうは、その周辺でほぼ「群生」に近い繁茂ぶりを確認。
悲しいけれど、こういう植物の名はまったく知識がない。
歩いている人に聞いても、だれも名を知らない。
しかし、その美しくリンとした立ち姿は、ストライクで心に届いてくる。
「北海道の山野草」みたいなサイトでも似たような画像が出てこない。
やむなく推定で、
なんとなく、「ユリ科」植物ではないだろうか、と目星をつけて
検索してみたら、これが「オオウバユリ」だとわかった次第。
オオウバユリならば地元の考古学文献などでよく名を聞く。
そうなんです、アイヌの人たちの非常に重要な食物なのです。
オオウバユリは、ギョウジキャニンニクともに
”食料の背骨”といわれた重要な植物だという。
以下、Wikipediaほかより要旨抜粋。

鱗茎はデンプンを含み、食用にできる。北海道では、アイヌにより
トゥレプの名で食用にされ、アイヌ民族が用いる植物質の食品の中では
穀物以上に重要な位置を占めていた。
旧暦4月をアイヌ語で「モキウタ」(すこしばかりウバユリを掘る月)、
5月を「シキウタ」(本格的にウバユリを掘る月)と呼び、
この時期に女性達はサラニプ(編み袋)と掘り棒を手に山野を廻り、
オオウバユリの球根を集める。集まった球根から、以下の方法で澱粉を採集する。
1 球根から茎と髭根を切り落とした後、鱗片を一枚一枚はがし、きれいに水洗いする。
2 鱗片を大きな桶に入れ、斧の刃の峰を杵がわりにして粘りが出るまで搗き潰す。その後で桶に水を大量に注ぎ、2日ほど放置する。
3 数日経てば桶の水面には細かい繊維や皮のクズが浮き、底には澱粉が沈殿している。繊維クズは「オントゥレプ」を作るために取り分ける。桶の底に溜まった澱粉のうち、半液体状の「二番粉」と粉状の「一番粉」を分離する。
これら2種類の澱粉は乾燥して保存するが、その前に水溶きした一番粉を
イタドリやヨブスマソウなど、空洞になっている草の茎のなかに流し込み、
灰の中で蒸し焼きにしてくずきり状にして食べたり、二蕃粉を団子に丸めて
蕗やホオノキの葉で包んで灰の中で焼き、筋子や獣脂を添えて食べたりする。
乾燥して保存された澱粉のうち、日常使用されるのは二番粉である。
団子に加工して、サヨ(粥)に入れる。
一番粉は贈答用や薬用で、普段は滅多に口にできない。

こういう知識を得ただけでもうれしい。
この地でひとびとがいのちを繋いできたきわめて重要な役割を
担ってきた植物であると知ることは、
なにか、とても大切な気付きを与えてくれるような気がします。
リンとした立ち姿に神々しさも感じている次第であります。



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今頃、ゴルフ今年初ラウンド

2014年07月14日 09時32分36秒 | Weblog


わたし、一応ゴルフ、やってはおります。
でも、だんだんと縁遠くなってきておりまして、ここ15年以上、20年近く
年に3~4回の「付き合いゴルファー」であります。
若いときにはややハマって、ハンディも14までもらったことがありました。
所属していたゴルフクラブの「月例」の常連になって
準優勝したりしたこともあります。
なんですが、ちょっとがんばりすぎてギックリ腰とかやったり、
「これ以上やっていたらシングルになってしまう」
という恐怖心(笑)、から、意識的に遠ざかることにしまして、
一時期は、まったくやらずにいた次第です。
そうなんです、シングルとかになったら、それを維持するだけでも大変で
週に1回どころではなく、どんどんのめり込むのがコワくなったのですね。
まぁ、面白いんですが、なにごとも適度が良いだろうと思ったのです。
というようなことで、ことしはとくに縁遠く、
きのう参加した銀行さんの付き合いゴルフが、なんと初ラウンド。
まぁいくらなんでも、7月の半ばまでクラブを握らないのははじめて。
まったく1年ぶりくらいなので、同伴の方に迷惑も掛けられないなと
2~3日は練習場にも行って、臨んだ次第ですが
やはりそう甘くはなく、スコア的にはたいへんきびしい(笑)。

そんななかですが、
久しぶりにゴルフクラブを1本だけ購入しまして、その筆下ろしも。
むかしは当たることもあった、3番アイアンと4番アイアン、
ここ十年くらいまともに当たったことがなかったので、
ついに「ユーティリティ」ウッドに変えることにしたのです。
で、いろいろなクラブでたくさん叩いたのですが、
だんだん、この新しいクラブがいい当たりをするようになってきて、
終いの方では、このクラブでのショットが決め手になって
パーパーでのフィニッシュ。
道具には昔から無頓着で、だいたいは貰ったものでこと足れりだったのですが
どうも宗旨替えしなければならないみたいであります。
最近のクラブは、どうも打ちやすくなってきている。
年を取ってきてから、やはり飛距離は落ちてくるので
それを考えてもウッドクラブはよく考えた方がいいようですね。
最終ホールになった写真の9番ホールでは、
ドライバーがミスショットで、180ヤードほどしか飛ばず、
残り打ち上げを含めて180ヤードをこのユーティリティで打ったのですが、
おかげさまで見事2オンに成功したのです。
持った感じ、見た感じとも、どうもしっくりくる。
これは、同じシリーズのクラブを欲しくなりそうです。
適度の健康維持促進を考えて、もうちょっと機会を増やそうかなと
悪だくみをはじめようとしている次第です。
ふむふむ・・・。
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新住協に見る産学協同

2014年07月13日 05時28分08秒 | Weblog


先日研修会があった、新住協北海道での「講義」いや、「ゼミ」風景です。
札幌で8日火曜日に開かれたのですが、
会場には100名近い参加者が集まり、熱気を持った活発な意見交換。
北海道ではいま、300mmレベルの断熱仕様に
チャレンジする工務店が増えています。
それらの施工手順を相互に公開しあって、最適解を探ろうという研修会です。
一口に300mm断熱とは言っても
各社ごとに、それぞれで施工の仕方には工夫が込められている。
それらを整理して、丁寧に整頓していきます。
それも、基本的な技術方向の確認から具体的な施工の手順に至るまで
いわば、技術の基本から実際の落とし込みまで
鎌田紀彦先生と会員企業である工務店の間で
忌憚のない、というか、そういう遠慮のありようもない濃密な実践的なやりとり。
いろいろな建築関係の大学・研究者のみなさんの講演は聞く機会がありますが、
大体が概念をなぞるような話で、
じゃぁ、具体的にどう作るか、ということは施工者に委ねられている部分が多い。
そこまで研究者が立ち入るというようなことは、普通ありえない。
研究者は、理論を研究するのが仕事で
実際に現実を変えていくのはあくまでも、事業者であるという
そういった風景が一般的なのですが、
鎌田紀彦先生は住宅建築を「システム工学」の視点で捉えられているので
それだけでは、日本の、北海道の住宅は革新されない
不十分であると、見切ってきているのかも知れない。
だから鎌田先生の話を大工さんが聞いたら、わかりやすいというし、
先生も、積極的に「大工手間」の現実をフィールドワークしている。
まことに「実践的」な住宅技術開発が出来上がっていく・・・。
とくに北海道の工務店グループは、
鎌田先生といっしょになって工法を作ってきたプライドもあり、
交換する意見にも、熱が帯びてくる。
よく「産学協同」というようなことが語られますが、
この新住協での鎌田先生と会員工務店のやり取りを見ていると
まさにそのものズバリだといつも思わされます。
学問の世界では、こういったスタイルは、しかしほとんど評価されにくい。
ほとんどが現実とはちょっと違ったアカデミズム世界での評価が基準になっている。
けれどそういうのは日本だけで、
海外では、このような産学協同こそが本スジという考えがある。

さて、鎌田先生の室蘭工業大学退官を来年3月に控えて
新住協の活動、組織形態にも変化の波が寄せてきています。
しかし、本質的な部分では、こういった活動が
多くの会員工務店にとって、きわめて生命線的であることは火を見るよりも明らか。
この核心部分、どのように永続を担保し続けていくのか
具体的な道筋を描き出そうと、いま、取り組みが始められています。




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300年前の旅行ブーム

2014年07月12日 11時31分53秒 | Weblog


先般の北陸紀行で立ち寄った富山の豪農の家で
当主が生涯に巡り歩いた旅程紹介がありました。
江戸時代というのは、たいへんな旅行ブームだったそうで
「東海道中膝栗毛」などの旅行随筆風の本が出版されたりもしていた。
そんな時代の雰囲気が伝わってくるようで興味深かった。
1701年に生まれて、1780年に亡くなっている方の旅路地図ですが
上の写真はその「東日本」部分を切り取ったもの。



で、こちらが、日記などで残されている旅程を
概略として書き出したもの。以下、年代と旅程を少し書いてみる。
20歳 伊勢参り~奈良・高野山・大阪・京都
60歳 京都
64歳 伊勢参り~京都・大阪
        越後・山寺・松島・日光・江戸・善光寺
っていうようなことで、たぶん若いときの見聞旅行から
隠居してからの道楽旅行の様子が見て取れる。
その後も、65,66,67,68,69,71,73,76歳と、活発に旅行している。
富山在住と言うことで、目的地は
京・大坂・伊勢から西国方面と、
越後・奥州・江戸方面の2方向に分かれている。
しかし73歳の時にいちばん遠くの太宰府・長崎などを訪れている。
当時は、歩くのが基本だろうから、
年齢を考えると、まことに元気いっぱいだったものと微笑ましい。
なにやら現代の高齢者の過ごし方のひとつの典型を見るようです。
この人は、現代にまで「豪農の家」という
立派な建物が残っているような家系の方ですが
しかし、江戸時代はこのような旅行熱が一般民衆レベルで
高かったのは間違いないようです。
陸路ばかりを旅していますが、
海路の方は、やはり一般の旅行では避けていたのかも知れません。
北陸は日本海交易の中心地域ですが、
ふつうの旅行にはあんまり利用しなかったのでしょうね。
想像していると、なにか、楽しくなってきます。
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