9月19日は正岡子規の命日です。
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以前アップした、正岡子規の葬儀の様子を再掲載します。
②子規の葬儀(2018年9月18日)
を再掲します。
★明治35年(1902年)9月19日は正岡子規の命日です。子規は明治期の俳壇・歌壇に大きな改革と足跡を残しました。
ある時、リコの歌会の先達、鈴木葯房師の『葯房主人歌草』を読んで居ましたら、子規の亡骸を棺に納める際の様子と葬儀の様子を書いた文章に目が留まりました。
鈴木葯房こと鈴木虎雄先生(1878年~1963年)は京都大学名誉教授で中国古典文学の功績で文化勲章を受章されました。
子規は享年34、この時、葯房24歳でした。子規の通夜と葬儀の様子をこんなに近くで立ち会った人の文章を読むのは初めてでした。
『葯房主人歌草』p216から抜粋します。
「子規君を夜台に送る。(明治35年9月22日 「日本」)
月の十九日子規君逝く。其の夕棺して之を守り、朝夕宗族朋友これに殮(れん)す。君が遺体は病臥のままに随ひ蓋ふに白布を以てす。収むる所のものは暫く流俗に従ひ亦た君が志にかなふ。青葉あり紅艸あり、蕪あり、瓜あり、萄あり、橘あり、秋色斕然(らんぜん)、君その中に眠るに似たり。朋友の親しきもの十数室を隔てて枕頭に環座し、律の僧一来て経を読む。翌二十一日、親族朋友来り会す。午前九時霊柩門を出づ。白灯四、野花二、銘旌なく、楽音なし。僧は導たり。木主は君が従弟之を奉ず。棺の左右は君の友人侍し、墓標次ぐ。其の後は葬に会するもの、其の次は君が令妹親戚、又た其の次は葬に会するもの。歩して田端大竜院に到り、経を捧げ香を抹し、遂に君を黄泉夜台の下に送らむとす。」
注:銘旌(めいせい)・・旗じるし、木主(もくしゅ)・・位牌
前列右から4人目の膝の前で手を組んでいるのが26歳の高浜虚子、後列の一番左が河東碧梧桐。
〇虚子こそは子規の一番弟子ならむ特別展開かる虚子記念館に 涼風
〇「子規逝くや十七日の月明(つきあきらか)に」と立待月の虚子の弔句
〇縁側に躙る写真の子規の顔長患ひの人には見へず
明治33年12月23日、蕪村忌当日の子規庵最後の俳句会の写真。右上の丸のなかは子規です。
拝読(見)しながら、涙がほろりでした。明治は、いや大正も昭和も遠く
なってしまいましたね。それではまた。
子規の葬儀の様子の他に百日忌の様子も来月、アップしますので楽しみにしてください。
5年ほど前に根岸の子規庵を訪ねた時にいちはつが生えていたので、胸が熱く成りました
いちはつの花さきいでてわれ目には今年ばかりの春ゆかんとす
この歌を思い出しました