<戦後73年> 生還後に隔離の特攻隊員、歌残す
特攻隊に所属していた当時の上田克彦さん=群馬県の館林飛行場で(堀山久生さん提供)
太平洋戦争末期、厳しい戦局を打開するため、飛行機で敵艦に体当たり攻撃を試みた特攻隊。一度は死を覚悟して出撃しながらも、機体の不調や悪天候から帰還した陸軍の隊員が、現在の福岡市中央区にあった「振武(しんぶ)寮」に収容され、人目に付かないよう隔離されていた事実はあまり知られていない。そんな隊員たちが任務を果たせなかった無念や戦死した仲間を思う和歌が、鹿児島県南九州市の知覧特攻平和会館に保管されている。
知覧特攻平和会館に保管されている上田克彦さんの歌=同館提供
爆音に つと身をおこし 気がつきぬ
喜界の人の ことぞしのばる
岐阜県高山市出身の上田克彦さんが振武寮で、縦二十五センチ、横九センチの便せんの裏に記した歌だ。一九四五(昭和二十)年四月、当時二十六歳だった上田さんは、奄美群島の徳之島の飛行場から、特攻隊として沖縄戦に出撃する予定だったが、直前に米軍機の空襲で飛行機を失った。
北東の喜界島に船で移動し、迎えの飛行機で福岡県の軍司令部に戻ることになった上田さんは再び、九死に一生を得る。乗る予定で乗れなかった迎えの飛行機が、離陸した直後に米軍機に撃ち落とされたのだ。その後、振武寮に収容された上田さんは、再び群馬県の部隊に配属され、そこで終戦を迎えた。戦後は林野庁に務め、晩年は東京で過ごして二〇〇八年に八十九歳で亡くなった。上田さんの次女恭子さん(63)=東京都多摩市=は今年七月、父の知人を介して父が詠んだ歌の存在を初めて知った。歌の意味について「父は特攻隊の話をしなかったが、喜界島での出来事は子どもの頃に聞いたことがある。振武寮にいた時、飛行機の爆音を耳にするたびに、目の前で亡くなった仲間をしのび、もう一度特攻隊として出撃しようという決意を固めたのではないか」と語った。
山久生さん(左)と父上田克彦さんの戦争体験について語る恭子さん=東京都練馬区で
上田さんが最後に所属した群馬県の部隊の隊長だった堀山久生さん(95)=東京都練馬区=は、上田さんに戦後再会した際に漏らした言葉を覚えている。「特攻のことはもう忘れたい、と話していた。振武寮に収容された特攻隊員は、周囲からひきょう者呼ばわりされたと聞いている。国への忠誠心が厚かった上田さんは、我慢できないほどの屈辱を味わったと思う」上田さんら振武寮に収容された五十五人が詠んだ歌は一六年に、ある軍関係者の遺族が遺品を整理中に見つけ、知覧特攻平和会館に寄贈した。計五十九首の中に、生き延びた喜びを記した歌は一首もなく、任務を果たせなかった無念や、再出撃への強い願い、先に戦死した仲間への思いを記したものがほとんどだ。同館専門員の八巻聡さん(42)は、歌について「振武寮を管理する軍側が、風紀の乱れを防ぐため、隊員に気持ちの整理をさせるとともに、その心情を把握しようとしたのではないか」と指摘。「生き残った特攻隊員の研究は、まだ進んでいない。歌は彼らの心情をひもとくきっかけになると思う」と話している。(加藤拓)