イタリアの風に吹かれて ~con te partiro~

前世(かこ)から未来(いま)へと紡がれし時の記憶
あなたと交わした約束の欠片を辿る遥かなる愛しき旅

光そのもの

2010年11月12日 12時41分33秒 | 

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自他共に認める、ドジで涙もろくて感激や の私。

以前にも増して涙する事が多い気がする。

年を重ねたせい?否。では・・・・・・・?

自分自身のふがいなさや、悔し涙のそれではなくて

只々、ひたむきに、語らずして健気に頑張っている

人、動物など・・・ 【ほんもの】を見ていると、

そして そういう場面に触れると、

自然に胸のあたりがじんわりしてきてウルウルする。

心のセンサーは とても精妙で とても素直。

例えば 自分の中に備わっていないものを、

シャカリキになって大きく見せようとしたりしても、

言葉を器用に そして巧みに操ったという勘違いで

思いつくまま 美辞麗句を並べてみたところで、

届いた筈と自信を持っている事は思い込みにすぎず

本当に届けたい人には届いてはいないのかもしれない。

心のセンサーは、みんなに平等に備わっている、

【真実の扉】の様な役割も兼ねているのではないかと、

ふと思った。心のセンサーに小手先は一切通用しないし

騙す事も出来なければ、びくともしないと思う。

「ん?なんか、この人の言ってる事、怪しいのでは・・・

ただ 自分に酔いしれているだけなのでは?」と

いう様に、それが直感と言うべきものなのか、

はたまた 本能というものなのか、いずれにしても、

自分の心のセンサーを大切にし、ただ感じていれば

もし突発的な事があったとしても、深みにはまる前に

ちゃんと気付くから 結果的に、危ない領域に自ら

踏み込まなくて済むから 安心でもある。

 

時々『言葉尻を取られない様に気をつけて』という

言葉を耳にするが、これは言い得て妙だなと思う。

本人が一見、どんなに完璧と思われるような、

ちゃんとしている、と思われる様な言葉を使っている

つもりになっていたとしても、その言葉を受け取る側に

 

自分に対しての強い思いこみや自分は間違ってはいない

と、常に自分の言動に自信を持ちご自身を省みない人

というのは何か哀れな気がします。何故なら周囲はあれ?

と、何かが おかしいな、と気付いているのに、

裸の王様の本人だけが 何も気づいてはいないのだから。

自身を省みない所に成長はあり得ないのだから・・・・

 

誤解されてしまったとしたら身も蓋もないし自分の言葉で

新たに相手の心に新たな傷を生む事にもなってしまう。

本来 言葉というのは 自分の世界に酔いしれる為に

顕すものでも、感動させようと策を講じて顕すものでもない

気がする。自分の中で思った事がいよいよ自分の口から

相手に向かって放たれた瞬間、もうそこには放った者の

言葉に対する責任が確実に伴うものだと痛切に感じる。

時々「よく誤解されるが自分は決して悪くない」と言い切る、

ある意味 信念の強い?奇特な方をお見受けするが、

そんな時、実に余計な事ではあるが(笑)心の中では

「勿体ないな~」と思う事がある。何故ならそういう人は

言葉の持つ真の偉大さを理解されてはおらず、また

美しく言葉を紡ぐ事に慣れてはいない気がするので。

だからこそ、どんな時に、どんな言葉を放つ事が、

相手を不快にさせ、相手に衝撃を与え、相手の痛み

となるのかを知らないのだから。だからこそ 

その時々に自分が感じたまま、思ったままを、

自分のラフな感覚のみを頼りに【歯に衣着せぬ】の如く

後先考えずにポンと言い放ってしまえるのかもしれない。

でも やっぱり人間は、日々進化していくものだから、

年を重ねる毎に、言葉の紡ぎ方も進化していく方が

むしろ自然な流れの様な気がする。

言葉は自分の顔 そのものの様にも思う。話すと

その生き様までもが如実に顕われてしまうものだと。

だから信頼関係が築けていない関係や初対面では、

本当に慎重に言葉を扱わないと、相手にとっても、

自分にとっても、結果、ただ衝撃が走るだけ、

になってしまうので、言葉の重さには普段から充分に

気を配りたいものである。人は案外 自身に向けられた

マイナスの言葉というのは気にしていなさそうにみえて、

実はしっかりと覚えている様な面もあると感じるから。

何でもかんでも感じたままに言葉にしてしまう方の事を、

【生まれたままの姿】 と表現したらいいのか、若しくは

世の中の荒波の中で、磨かれる前の段階の、

可能性をに満ちた【粒子が粗いだけの人】と表現すれば

いいのか・・・・・いずれにしても思うのは自分というものを

過信してあまりにもストレートにダイレクトに何も考えずに言葉を

放つのは多くの人の心をビクッとさせる事に繋がるという

事実も忘れてはならないと感じたとにも かくにも、

口癖のように「自分は絶対大丈夫、絶対に非がない。

誤解するのは相手が悪いんだ」の一点張りの輩は、

自身を省みる事はせずに常に原因は相手と主張して

譲らないのが特徴だが、そんな場面に時々第三者として

居合わせた時に思うのは「あぁ、この方はまた同じ事を

繰り返しているのだな」と率直にそして少し残念に思う。

自身の放った言葉にがよく誤解されてしまう人というのは

思うに【言葉が足りないから】とか【語らないから】とかの

理由ではない様な気がする。例えば、普段温厚な人が

突然、ある言葉に反応しサッと顔色を変えムッとし、

距離を置くというのは、言った本人からすれば、

「はっ?何かヘンな事いったっけ?」とケロッとしていたり、

「自分はただ正直に、思った事を普通に言っただけ」で

済む事なのかもしれないが、そしてそこには何の悪気も

ない様だが(故に始末が悪い)そういう人が使う語彙というのは

たった一言でも実際はかなりキツイ一言であったり、又

様々な可能性や感情を秘めた、目の前の相手の思いを

ちゃんと確認する前に自分の思いこみや憶測や直感などで

相手の思いを先に勝手に決めつけてしまっていたり、

断言する様な言葉を 案外平気で放っていたりしている。

哀しいかな、この事実に本人は勿論気付いてはいないのだが・・

(私も繊細であるが)繊細と言われる人だとしても人は皆、

聞き流し、許す、という事もちゃんと備わっている生き物なので、

相手をムッとさせてしまう事が多いな、と感じる方はそろそろ、

ご自分の言動を省みる、という新たな段階へと

差しかかっている気がする。

( 「自分はどうも言葉で誤解される事が多い気がする」

という方はチャンスです。本来の自分を誤解なくちゃんと

相手に知って貰う為にも面倒臭がらずに、諦めずに

誠実な想いを伝える為に、放つ前に自身の中にまず

言葉をゆっくりとたゆたわせその言葉を使ってOKか

まず心のセンサーに確認をするというゆとりが大切な

気がします。勿体ないです。自分が自分に損をさせる、

きっかけを与えてしまうのは。

人は、言葉が足りない人に対しては案外寛大であり、

足りない事に対しては殆ど怒りを覚えたりしないものだし

たった一言あってもカチンとくる言葉が自分に向けて

放たれた時に初めて、その人の中で、怒りが生まれる

ものだと感じます。けれど、こういう方を見ていると、

「言葉で相手をやりこめてやろう」だなんて事は微塵も

思っておらず、更に共通しているのは不器用であり、

言葉の使い方や重みをただ知らないだけという事です。

こういう方の特徴は割と普段から自分については多くを

語らないし、自分についての説明も殆どしないので

余計に周りから誤解をされてしまう というきらいもある。

私は 言葉というものは、ある意味、日々の訓練であり

時間をかけて養い培っていくものなのではないか

思っています。同性、異性、様々な年齢の様々な考えを

持った多くの人達と、話すという実践の中でこそ、初めて

身につくものなのではないかな、と思います。勿論、

媚びたり お世辞など言う必要は全くないけれど

褒め言葉ではない時は、自身の口から飛び出す前に、

その言葉を情でくるんで、思いやり加工をしてから

伝えてみるのは如何でしょう? )

 

つい、今しがた、昨日、新たなるご縁を頂いた

ヒーリング・アティストNさんのブログを拝見した。

彼女の紡ぐ飾らない情緒的な、気品を感じる

言葉たちと、彼女の織りなす美しい絵の世界を

拝見していると、瞬時にハートが反応して、

感動の涙がジンワリこみあげてくる。

Nさんが伝えられている言葉は、

日々の生活風景の様々な場面に鏤められていて

ご自身を、人を・・・

本当に大事になさっている様子が伺える。

言葉と行動がとても自然に一致し、

溶け込んでいるからこそ、こんなにも素直に心の

センサーが反応するのだと、確信している。

私は彼女の描くものに確かな光をみた。