相対し直接交わす言葉のやり取りや メールでの遣り取り、
更にはその時々に感じさせられたことをfacebook上で
自身の知る語彙に修飾語を添え胸中を明かす中で
色々な方々から頂くコメントや私自身もまた同じように
友人のfacebookにコメントを寄せさせて頂く事を含めると
本当に沢山の日本語を日々使いながら
交流を深めさせて頂いていると感じると同時に
大事な言葉の勉強、訓練をさせて頂いている様にも思う。
褒められ慣れていない故 facebookに寄せて頂く
過分な言霊に時として恐縮しながらも、
「あぁ、私の真意を読み取って下さっている」
「そこに表せなかった思いをくみ取って下さっている」
と、感じた時は心の中にポタンと落ちた綺麗な滴が
悦びながら跳ね上がっているような思いになり
素直にとても嬉しく思う。
そしてまた、頂いたコメントにとても励まされたり、
その方の経験値に裏打ちされた貴重なエピソードを
開示下さった時などは 有難いなぁ~と思い
自身の気づきのきっかけにもなる。
私は 話す言葉、その音の持つ響き、
紡ぐ言葉を とても大事に思っているが、
言葉を紡ぎ表現する、という点において
僭越ながら 自身と感じ方や感性が
とても似ているなぁと思わされる、
1度お逢いしたことのある
facebookに豊かな表現力と美しく素敵な言霊を
そっと寄せて下さるある方がいる。
彼女と言葉のやり取りを交わす時
平安時代 和歌をおくりあっていたかのような
不思議な感覚になることがある。
彼女のブログやfacebookには 清らかな写真や
言葉たちが鏤められていて 立ち寄らせて頂く度
爽やかな風がスーッと通り抜けるような
穏やかさや あたたかさを感じる。
ブログをきっかけに
自身の世界を確立するようになってから私の中で
【私が思う確かな事】や【譲れないもの】が何なのかが
はっきりとわかってきた。それまではどちらかというと
色々な人の 色々な意見に
素直に耳を傾け過ぎるきらいがあり
相手の価値観に迎合しがちだったり
真の自分を顕す、ということに対しても
どこか尻込みをしていたように思う。
自分の世界が確立してくると、
今までは気にも留めず 疑問にも思わず
難なく受け流していた 何気ない人の言葉が
違和感として妙に心に引っかかるようになった。
例えばそれはどんなことかというと、
私の真意、私がある意図を持って書いた
自由な私の思いは私にしか分からないことなのに、
(意見や批評なんてお願いしてはいないのに)
「~を読んで 私は~と思いましたが
shokoさんも~の様に感じられたのですか?」と
確認をされることもなく、いきなり
「それは ~で ~ですね」と その方の主観で
簡単に決めつけ 書かれたりしてしまうと、
「何故この方は 書いた相手(私)に確認をしないで
勝手に断言し決めちゃうの?」と心がざわめく。
人というのは成長という名のもとに 向上もすれば
違った意味で変化をしてしまうこともあると
常々思わされるので、多くの人が
○○先生~!と集まるような方であっても
どこか俯瞰して取り巻きにはならない様にしているが
そんな中で先生と敬い呼べる方は5人いらっしゃる。
そのうちのお1人は霊的な現象を科学的考察も含め
学問として教えて下さった師であるが、
講義を受ける何年も前、ある会話の中で
「自分というものが確立されてくればくるほどにね
自分の中に勝手に先回りして入りこまれて
『あなたは~よね』と決めつけられたり
頼んでもいないのに『~するといい』と
口出しされたりするのはとても嫌になってくるものよ
自分の思いは自分にしか分からないものだから」と、
かつて何気なく仰られたシンプルな師の言葉の奥深さを
今改めて「あぁ、本当にその通りだわ」と痛感している。
私の主観にすぎないが ブログでも
facebookに寄せるコメントでも
直接相対して誰かと会話をする場合でも
そして気心の知れた友人とのやり取りでも
相手の大切な世界に触れる時は
「私は~と思ったのだけど ~で合ってるかな?」と
まず確かめることは礼儀であり、
親しき仲にも・・・・であり
相手を大事に思うということに繋がっているような
そんな気がするのである。
そして 相手の領域にズカズカと入り込み過ぎない、
という意識は自分や相手の境界線をも
大事にするという事に繋がっている様な気がする。
一番書きたかったことが 最後になってしまったが、
冒頭で触れさせて頂いた facebookで私を含め
色々な方へ心あるコメントを向けられる ある方の
本当に素晴らしいなと感じさせられる大きな点は
相手の書いたこと 表したことを自分の気持ちで
スパンと断言してしまう 一方的なコメントではなく
常に「私は~と感じましたが○○さんもその様に
思われたのでしょうか?」と
素敵な【?(クエスチョンマーク)】が必ずついている事。
彼女は無意識でしていることなのかもしれないが
「~ですか?」のクエスチョンマークを 拝見する度に
相手の心を深く感じ 察する事のできる
美しい心の持ち主だなぁ~と心から思うのである。
【私があなたの○○を拝見して思い感じた事は
もしかしたら あなたの思いとは
全く違うものかもしれません。
私はあなたに あなたの気持ちを
こうしてお聞きしなければ何も分からないのです。
だからあなたの気持ちを教えて頂けませんか?】
彼女の思いやりのある【?】、私にはこんな風に
感じさせられるのだが、私の勝手な思いこみは
失礼にあたるので 近々こっそり彼女に
お尋ねしてみようと思っている。
例えば目の前で起こっている霊的な現象について
何故そうした現象が起こっているのか
そしてその意味は何なのかを人間は分からない、
そして自分が見える、分かるのでもなく、
霊的な現象を人間が起こしているのでもない。
私達人間には 何1つ分からないからこそ
何故そのような現象が起きているのかを
霊的世界の方々に真摯にお聴きする。
自分以外の相手の繊細で多様な心模様は
肉体を纏っている人間に全て分かる筈もなく、
だからこそ 分からないからこそ 都度聞くこと、
聴くという事は 自身の立ち位置を知ることであり
生涯その姿勢を忘れずに貫くことを
謙虚である、というのかもしれない。