イタリアの風に吹かれて ~con te partiro~

前世(かこ)から未来(いま)へと紡がれし時の記憶
あなたと交わした約束の欠片を辿る遥かなる愛しき旅

陽の氣

2015年06月10日 09時09分32秒 | 文字アート



時として陽の氣勝る知り合いたちは
それが相手にどう響くかを考えず 感じたままに
強い言葉をポンと放つことがある。
そしてご丁寧に 
「流さず いちいち反応するほうがおかしい」とつけ加えたりする。
一見ごもっとも、と勘違いしそうになるが
「え? えーっ?!」 口あんぐりである

そうしたヒトたちに見られる特徴は「ガハハハハ」と笑い飛ばし口癖は
「気にしない」 「相手にしない」 「反応しない」 「おもしろい」であり
良くも悪くも あっけらかんとしていて 
さりげなく「大らかさ」をアピールしている節がある。
しかし、そこは感情のある 愛すべき生身の人間である。

自分が大事にしている物事に触れられた時も同じように冷静に
「気にしないから大丈夫」と涼しい顔で
笑ってやり過ごすのかと思いきや、
いつもの冷静さはどこへやら スッと顔色が変わり
他人の口をついて出た言葉尻は決して逃さず
躍起になり饒舌になる。

こんな風にヒトというものは
 自分の大事にしているものごとや
傷に触れられれば 反応するほうが
むしろ自然な心の動きなんじゃないかと私は思う。

言葉を崩した瞬間、遠慮という垣根が取り払われ
相手に確認せず相手の領域にズカズカ踏みこむヒトがいる。
そうしたヒトを目の当たりにする中で学んだこと、
それは言葉を崩さないということである。

表面には見えなくとも、本人があれやこれは語らなくとも
人の数だけ 様々なドラマがそこにある。

自分とは異なる 様々な人生経験を積んでいる
目の前の人の人生をリスペクトする意味においても、
本人がトツトツと自己を語る前に 憶測で
このヒトはこんな人、とレッテルを貼ってみたり
頼んでもいないのに
ジャッジしたりすることは どうなのかと思う。

ヒトというものは何故 時々、
敢えて言う必要のない余分な言葉を
ポンと放ってしまうのだろう?

「陽気」という言霊を描いたあと、ふと思ったことである。