ここ数年 よく見聴きする断捨離という言葉、
私の心には特に響いていませんでした。
というのも私の場合、瞬時に魅せられ
作品の美しさに心奪われ 即、お見合い成立で
目の前の商品を迷わず購入することもありますが
基本、物を買う時は 安いからとか
みんなと同じが安心と、一時的な流行にパッと飛びついて
「気に入らなかったら捨てちゃえばいいし」という安易な発想で
衝動的にパッパと買うというタイプではなく、
時間はそんなに要しませんが、毎回、
「私は本当にこのデザインやモチーフ、色に惹かれているの?
飽きずに長く付き合うことができる? 私に似合ってる?」
ということを自分に問うて納得してから購入しているので
結果的にチョツトした小物でも、服でも、鞄でも、靴でも、
スカーフでも、アクセサリーでも何十年単位で長くお付き合いしています。
なので、この言葉が度々聴かれるようになっても、
「私には関係ないワ」と スルーしていました。
買った物を有効活用せず、ただポイポイ捨てていたら
地球はゴミだらけになってしまいますよね・・・・
同じ日本人として誇りに思う清楚で理知的で素敵な女性、
世界で最も影響力のある100人に選ばれた
「人生がときめく片づけの魔法」でおなじみの
話題の近藤麻理恵さんも 金スマ他の番組を通し
ブレイクする前から存じ上げていましたが、当時から
「アイディア一杯の素敵な女性だな」と思いながらも、
私自身はそれを実践したいとは思いませんでした。
ですが・・・・先月17日から突如心が動き
私の『断捨離』生活が始まったのです・・・・
「血が騒ぐ」という言葉がありますが、
B型という血液が少なからず? 影響しているからなのか?
私の場合何かことを起こす時はヴェートーヴェンの「運命」の如く(笑)
頭の中にあのドラマティックなジャジャジャジャ~ンが鳴り響くように
突然 何の前触れもなく スイッチがポンと入ります。
子供の頃から乗り物酔いが激しかった私。
恐らく一生 車の免許を取るという事はないと思っていましたが
そんな私が30代半ばで免許を取ろう!と決心したのも
やはり突然でした。
今この場で『断捨離』という言葉を使い、
実際に過去の様々な物たちを思い切って
今も引き続き 「今までどうも有難う」と
その時々を懐かしく振り返りながら手放している最中ですが、
先月、よし!!と 片づけスイッチが入るきっかけを作ってくれたのは
5月15日、近(コン)マリさんご出演の金スマを見たからでした。
何度も耳にしていた彼女の口癖でもある
「ときめき」や「右肩あがり」というの言葉は
その時 私の心に響きました。
6月初旬、お客様がお見えになることもあり、、
今日だ!と思い立った5月17日、PCルームを皮切りに、
一番気になっていたウォーインクローゼットに取り掛かりました。
PCルームは半日で終了したものの、
ウォークインクローゼットはことのほか、時間と日数がかかり
途中ゲンナリすることもありましたが、
それでも懐かしのポップスを聴きながら、
6月初旬、綺麗になりました。
鞄好きな私は今も時々鞄を購入していますが、
OL時代に使っていたお気に入りの大切にしていた革鞄も
今回、5つ処分しました。
(ラナパーで時々手入れしていたものの、
鞄の中がカビていたこともあり思い切りました)
いつか着るかもしれない、と大切に保管していたお気に入りの
ワンピースやツーピース、ジャケット、スーツの大半も処分し、
拭き掃除の時に使おうと、着なくなった衣類や
古タオルを裁断しちょこちょこ溜めていたウエスも、
学生時代から取って置いた手紙や交換日記も、
幼稚園時代の絵本もピアノの楽譜、小物、
学生時代に学んだ初等教育の教材も
思い切って処分しました。
45ℓの袋をこんなに出したのは
初めての経験でした。
大掛かりな断捨離を始めてから一カ月経ちますが、
現在も、書籍などの片づけを続行しています。
今年3月、ブログでお知らせした
陸前高田市 図書館プロジェクトへも
近々、本をお送りします。
少し休憩して、来週あたりからは
寝室の書棚、アトリエに取り掛かろうと思います。
本やこれまで受けた講義などの資料、スクラップ、
CDがとても多いので、整理するにも時間を要しますが、
片づけをしていると、思いがけない所から
お金や商品券が出てきたりして嬉しいことも度々あります。
また、かつて告白下さった方々から頂いた贈り物や
ラブレターなどが出てくると、
「こんなに愛されていたんだな~」と胸がキュンとしたり・・・・
自分という人間が歩いてきた道程を
改めて知ることにもなり、失いかけていた自信を
取り戻すとでもいいましょうか・・・・
繊細故、時に傷つきながらも一生懸命だった
あの頃のキラキラしていた自分を発見してあげることもできて、
片づけは私という人間のアイデンティティーをも
そっと気付かせてくれた素晴らしいアクションでした。
この4~5年 毎日の様に描き続けてきた
1000点以上の作品たちも クローゼットの一か所に
スペースを作りファイリングしました。
いつかこの作品達が、多くの皆様の目に
触れたら素敵だなと思っています。
最近 ある方との会話の中で、
「普通の人はサラッと流せるようなことでも反応し、
大事にされないと心を閉ざし壁をつくってしまう」etcと
ご指摘を受けました。普段、活字で伝えてくれている内容とは
だいぶ違い冷静に淡々と「あなたはこういう人」と語る口調に
「本当は私の事をこんな風に捉え観察していたんだ・・・」と、
思いがけず聴くことになった彼女の本音に、
顔にこそ出しませんでしたがややショックを受けました。
しかし同時に「確かにその通りかも・・・」と
自身を省みてもいました。しかし時間が経つにつれ
ひっかかった言葉は益々頭から離れず私を縛り
数日間 凹んでいたのですが、
指摘された言葉をゆっくりと咀嚼するうちに
私の中である確信が生れました。
それは開き直りや 言い訳のそれではなくて、
人という生き物は、私に限らず、
本来、心健やかであるほど、自分という存在を
ぞんざいに扱われたらイヤだなと感じる生き物であり、
自分という存在を大切にしてくれる存在との健全な関係を求め
育み深めてゆきたいと思うのがむしろ自然なことではないか、
というものでした。
また人というものは、自分が大切にしているものであり、
仕事も含め、生きがいを感じ情熱を注いでいるもの、
大切に思っているものに対しては、他の人が、
何気なく言った悪意のない一言であっても、
「え? それってどういうこと?」と、反応し
心動く生き物なのではないか、とも思います。
現に私のことを「反応する」他、分析し
ご指摘下さったその方も、同じ日の
私との何気ない会話の中で、
「色々な方に~して貰っていると思いますが」
という私の質問に対し「え?」と反応され
怪訝な表情をされたのち、やや強い口調で
「私は人をちゃんと選んで~してもらっている」と、
間髪入れずご自身の気持ちを私に強く伝えてきました。
その時 私が使った「色々なかたに、」という言葉は、
深い意味はなく、「複数の」という意味であって
「やみくもに」とか「手当たり次第に」というような
意地悪な意味で言ったものではなかったのですが、
彼女は後者の方に捉え反応された様に感じました。
ご指摘を受けた直後のこうした彼女の
思いがけない反応に私自身少し驚きました。
このように人というものは、
自分が大事にしているなにがしか、については
いつも以上に敏感にアンテナがピピツと動き
反応するものだと感じます。
普段から自分の言動を顧みるなんてことはしないという
どこか自信満々な人は、失言をしても、
失礼な態度をとったとしても 本人もしくは誰かから
直接指摘されない限りそうした過ちに気付く、
ということは皆無な気がします。
そうした人は時々、躊躇なくビックリするようなことを
ズバッとサラッと冷静に指摘したりします。
内容にも回数にもよりますが、感情を持つ
神様ではない ごくごく普通の人間の私は
ちよっとこれは・・・と思い許容範囲を超える時は、
無理をして、自分を押し殺してまで
そうした鈍感な方と喜んで付き合いたいとは
思えないので、そうした方から遠のくようにしています。
このようにご縁をほどく、離れるということを選ぶまでには
それだけの理由あってのことですが、
こちらのそうした背景や気持ちも分からずに
「関係を切ってしまうから怖いと思った」と
いきなり言われてもこちらも困惑してしまいます。
それぞれが異なる環境の中で育ち、
自分とは違う様々な経験を積んでいる、
様々な感情を持ち合わせているという紛れもない事実に
少し思いを馳せれば、目の前の相手のことや
相手が過ごしてきた人生を僅かな会話や
相手の僅かな自己開示からの憶測で
簡単に相手をジャッジしたり、
キツイ言葉で「あなたはこんな人」と本人に言いきってしまったり、
決めつける物言いなんて できないのではないか、
そんな風にわたしは思うのです。
慎重といわれようと、言葉に反応する、と言われようと、
それも含めて紛れもないわたし。
慎重なのにも訳がある。慎重だから悪いのでもない。
人や物、命を大事にしたいと思うにも訳がある。
私は時折、自身のブログで『自分の取説』のようなもの
~をされたらイヤと感じることなどを開示していますが、
関わる人達に「自分を理解し受け入れて下さい」という
お願いモードで開示しているのではありません。
「私はこういう人間です」と、私という人間の特徴を
知って貰えたら、とラフな感じで伝えています。
それは使ったことのない家電を扱う前、
一通り取説に目を通すのと同じ感覚で使用前に
~に気を付けて下さいね、という
注意書きのようなものと似ていると思っています。
本来、「私はこういう人間です」なんて、
こうした場で表現しなくてもいいことであり、
内面に関わることはあまり開示したくはないのですが
中には、相手との丁度良い距離感が分からずに
ノックもせず勢いのまま平気で人の心の中にズカズカと
土足で踏み込んでくる人もいるので
そうした人からの不要な、受け取りたくない言葉を
事前にシャットアウトする為、
自分の内側を護る為にも、私はこうした場で
時々、こんな風に自己を開示しています。
言葉や活字では どんなに愛に溢れ
思いやりに満ちたことを沢山伝えてくれていたとしても
それはその瞬間に思っただけのことであって
5分もすれば別の事に心が向き
少し前に自分の口をついて出た言葉も
書いた言葉もキレイサッパリ忘れてしまう。
こうした心ここにあらず、の社交辞令や
見せかけの優しさに翻弄されることなく
安心し心許して自己を開示しすぎることなく
もう少し冷静に 頭を使って(笑)人を観極め
割り切っている人にはこちらも割り切って
もう少しライトに関わって行こうと思います。
私はゆっくり丁寧に時間をかけて
関係性を築いてゆくタイプなので
車窓から流れる一瞬の景色を愛でる
「今、この時だけが大事」というようなタイプの人とは
根本的なもの、感性がだいぶ異なるので
そうした方との長いお付き合いは結果的に
難しいと感じるのでその辺も無理せず
自分の心地よさを選び取っていく所存です。
開示しないまでも、人にはそれぞれ
踏んではならない地雷があるような気がします。
人の気持ちをえぐるようなことはしない
本当の意味で 大切な人が困っている時
そっと寄り添う 優しいニンゲンでありたい、
そんなことを思っています。
良くも悪くも純粋ゆえの子供は
時に正直に残酷なことを言います。
外見は大人であって、言う事は理路整然としていても
心がふわふわし、子供のような感性が強い人は時々、
相手がどう感じるか、ということは考えず悪びれず
思ったことをポン、と放ちます。
子供のようなピュアさを持ちながらも本当の意味で
心が成熟した大人は、言わなくていいこと、
いう必要のないことは 言わないので
こうした思いやりのある、想像力のある方とは
悲しくなることも、嫌だな、距離を置きたいなと思う事はなく、
長く いいお付き合いが続いています。
片づけをしながら、自分の真の思いと向き合っていました。