瀬波温泉に行く途中、立ち寄ってみようかと思い立ち、高速道路をおりたのが、
新発田市にある新発田城でした。
お堀に櫓の姿を映しているのは城址公園に面した二の丸隅櫓。
新発田城に限らず、お城とお堀のたたずまいには、どの城を訪ねても
威厳を感じさせるものです。
城址公園に面したもう一つの櫓が三階櫓。
三階櫓は平成16年に復元したものだそうで、天守閣に相当する櫓とか。
幕府に対する遠慮だったと、お城のガイドスタッフの方が話してくれました。
ガイドスタッフの方と話していると、その方が急に困惑した表情になりました。
というのも、私が福島からきたというと、「外様であったにもかかわらず、
新発田藩は、幕末の戊辰戦争時に幕府側ではなく官軍側についたのでー」と。
「薩長」というと、会津の人はいまだに許しがたい感情を覚えるようです。
歴史の中から培われた思いは、容易には消えないのかもしれません。
表門の前の茶屋の脇に、堀部安兵衛の銅像がありました。
忠臣蔵の四十七士の一人だった堀部安兵衛が、新発田藩の浪人の息子
だったとは知りませんでした。
新発田藩の三代目の藩主溝口宣直が造営した下屋敷が「清水谷御殿」。
その後四代藩主の下で庭園も造営され、今は「清水園」として公開されています。
書院・茶室・庭園。見事というほかありません。
この下屋敷は、戊辰戦争(北越戦争)時、新発田藩のその後の命運を分けた
舞台となったところとか。
今は静かなたたずまいですが、当時、藩主・領民にどのような思い・激情が交錯
したのでしょうか。
新発田市にある新発田城でした。
お堀に櫓の姿を映しているのは城址公園に面した二の丸隅櫓。
新発田城に限らず、お城とお堀のたたずまいには、どの城を訪ねても
威厳を感じさせるものです。
城址公園に面したもう一つの櫓が三階櫓。
三階櫓は平成16年に復元したものだそうで、天守閣に相当する櫓とか。
幕府に対する遠慮だったと、お城のガイドスタッフの方が話してくれました。
ガイドスタッフの方と話していると、その方が急に困惑した表情になりました。
というのも、私が福島からきたというと、「外様であったにもかかわらず、
新発田藩は、幕末の戊辰戦争時に幕府側ではなく官軍側についたのでー」と。
「薩長」というと、会津の人はいまだに許しがたい感情を覚えるようです。
歴史の中から培われた思いは、容易には消えないのかもしれません。
表門の前の茶屋の脇に、堀部安兵衛の銅像がありました。
忠臣蔵の四十七士の一人だった堀部安兵衛が、新発田藩の浪人の息子
だったとは知りませんでした。
新発田藩の三代目の藩主溝口宣直が造営した下屋敷が「清水谷御殿」。
その後四代藩主の下で庭園も造営され、今は「清水園」として公開されています。
書院・茶室・庭園。見事というほかありません。
この下屋敷は、戊辰戦争(北越戦争)時、新発田藩のその後の命運を分けた
舞台となったところとか。
今は静かなたたずまいですが、当時、藩主・領民にどのような思い・激情が交錯
したのでしょうか。