作家の宇江佐真理さんが亡くなられました。宇江佐さんは私の好きな時代小説の作家の一人でした。1週間ほど前、近くの書店に立ち寄ったとき、「髪結い伊三次」シリーズの最近作が文庫化されていないか、尋ねたばかりでした。
「明日のことは知らず」(文春文庫:15年1月)のあとがきで宇江佐さんはこう書いておられました。
『お蔭様で体調は今のところ安定しているが、何しろ予断を許さない情況で
あることには変わりなく、本作の「明日のことは知らず」のタイトル通り、
先のことはわからないのである』
宇江佐さんは、前作の「心に吹く風」(文春文庫:14年1月)のあとがきでご自身のガンについて触れ、また、今年に入って月刊誌「文芸春秋」2月号の「私の乳癌リポート」で病気のことを書いておられました。この「リポート」は、いつその日を迎えようともご自分の作家としての人生をこれまでどおり淡々と過ごしていく気持ちを述べられたものでした。お亡くなりになったことを知り、私の心に空しいものが流れています。
上に記した「文芸春秋」2月号(P150~)の中で、宇江佐さんは上田三四二という歌人のエッセイ(1989『群像』1月号)を紹介しています。タイトルは「病院通い」。宇江佐さんはこのエッセーにご自身の気持ちを重ね合わせておられたように思うのです。
〔病院通い〕
夜桜見物は覚悟の花見という気持ちがあった。夜桜の下で、ぼんやり光に
浮いて、弁当を開く。いちど、そういうことがしてみたかった。妻と二人、
にぎやかな車座と車座のあいだに小さく場所をとって、しずかに酒を
呑んだ。
桜の山は人の山がいい。あたりは騒々しければ騒々しいほどいい。そして
こころはしんしんと寂しかった。花が散り、隣の連中が酔いにまぎれて枝
を揺さぶると、満枝の花はたまらずふぶきと降りかかって、歓声が沸き、
花は膝の上の折詰にも散った。
村上華岳の初期の作品に、「夜桜之図」と題する、とろりとして男女のこ
とごとく狐に化かされたか、それとも尻尾でもありそうな、妖しい感じの
一枚がある。
その感じだった。私は花に疲れ、花に憑かれて、正気をうしなった。以来、
病気が確定した時も、入院と手術のときも、外来治療に移って三年になる
今日ただいまも、狐に化かされつづけているのだと思うことがある。そし
て誰かが、肩に手を置いて、「君は無病だよ、息災だよ」と言ってくれる
日を待つ気になる。それが、ほかならぬ息の止む日だと、知っていながら。
人生の店仕舞いというのは、寂しさとの共生なのかもしれません。(合掌)