麗江空港に着き、海珠があらかじめ手配していた車で宿に向かう。6時半ごろであたりはまだ明るかった。途中には田園風景が広がり、菜の花が咲き小麦が穂を出して、いかにも春らしい風景である。
麗江の少数民族、納西(ナシ)族の民家。白い壁に黒い屋根。
30分ほど走って麗江の旧市街、麗江古城にある宿に到着した。
麗江(リイジャン)は雲南省西北部にあり、面積は7,648平方キロ、人口は約111万人で、最も多いナシ族の他に、リス族、パイ(白)族などの少数民族が多数を占め、漢族よりも多い。
麗江にナシ族が住み着いたのは8世紀と古く、青海省から南下してきたと言われている。13世紀の終わりごろに元がこの地のナシ族の領主の木(ムウ)氏に「麗江宣慰司」の称号を与えてから麗江の名が始まったと言う。明、清、民国時代も木氏の支配は続き、社会制度は奴隷制だった。1949年に毛沢東の人民解放軍が入城し、麗江県人民政府が成立した。1961年に麗江納西自治県となったが、2006年に周辺地区を併せて麗江市となった。現在でも支配階級であった「木」姓があり、また奴隷的被支配階級だった「和」の姓が多くあるようだ。
ナシ族が作り上げた独自の景観を持つ旧市街が麗江古城で、「大研鎮」と呼ばれる。南宋時代(12~13世紀)につくられ、約800年の歴史がある。1997年に世界文化遺産に登録され、以来国の内外から多数の観光客が訪れている。
今回とった宿は「人和春天」客桟と言った。客桟はホテル(賓館ピンクアン、飯店ハンティエン)よりも庶民的な、「宿屋」と言ったところだ。
宿の事務室兼バー兼ロビーのある建物。
受付兼バー
このバーの右手に茶を入れる卓を囲んで椅子がおいてあり、ここで毎晩経営者夫妻と宿泊客が茶を飲みながら遅くまで談笑した。茶は経営者の夫人が淹れてくれることもあるが、客で心得のあるものは誰が淹れてもいいということだった。出されたウーロン茶もブーアール茶もなかなか好かった。
経営者夫妻。夫は陳欣(チェン・シン)さん、妻は周姸(チョウ・ヤン)さんと言う。四川省からこの地に来たそうだ。ナシ族の土地を借り受けて、この宿を造るまでにはいろいろ苦労もあったらしい。宿の実務はもっぱら夫人の周さんがしているとのことだ。夫妻とも宿泊客と気楽に話しこむ、人好きのする気さくな人柄だった。
客房楼への入り口。
客房楼。中庭を建物が囲む構造になっている。建物はナシ族の伝統的な木造建築の様式。
私が泊まった客房。簡素だが清潔。ベッドも頑丈な造りの木製。
麗江の少数民族、納西(ナシ)族の民家。白い壁に黒い屋根。
30分ほど走って麗江の旧市街、麗江古城にある宿に到着した。
麗江(リイジャン)は雲南省西北部にあり、面積は7,648平方キロ、人口は約111万人で、最も多いナシ族の他に、リス族、パイ(白)族などの少数民族が多数を占め、漢族よりも多い。
麗江にナシ族が住み着いたのは8世紀と古く、青海省から南下してきたと言われている。13世紀の終わりごろに元がこの地のナシ族の領主の木(ムウ)氏に「麗江宣慰司」の称号を与えてから麗江の名が始まったと言う。明、清、民国時代も木氏の支配は続き、社会制度は奴隷制だった。1949年に毛沢東の人民解放軍が入城し、麗江県人民政府が成立した。1961年に麗江納西自治県となったが、2006年に周辺地区を併せて麗江市となった。現在でも支配階級であった「木」姓があり、また奴隷的被支配階級だった「和」の姓が多くあるようだ。
ナシ族が作り上げた独自の景観を持つ旧市街が麗江古城で、「大研鎮」と呼ばれる。南宋時代(12~13世紀)につくられ、約800年の歴史がある。1997年に世界文化遺産に登録され、以来国の内外から多数の観光客が訪れている。
今回とった宿は「人和春天」客桟と言った。客桟はホテル(賓館ピンクアン、飯店ハンティエン)よりも庶民的な、「宿屋」と言ったところだ。
宿の事務室兼バー兼ロビーのある建物。
受付兼バー
このバーの右手に茶を入れる卓を囲んで椅子がおいてあり、ここで毎晩経営者夫妻と宿泊客が茶を飲みながら遅くまで談笑した。茶は経営者の夫人が淹れてくれることもあるが、客で心得のあるものは誰が淹れてもいいということだった。出されたウーロン茶もブーアール茶もなかなか好かった。
経営者夫妻。夫は陳欣(チェン・シン)さん、妻は周姸(チョウ・ヤン)さんと言う。四川省からこの地に来たそうだ。ナシ族の土地を借り受けて、この宿を造るまでにはいろいろ苦労もあったらしい。宿の実務はもっぱら夫人の周さんがしているとのことだ。夫妻とも宿泊客と気楽に話しこむ、人好きのする気さくな人柄だった。
客房楼への入り口。
客房楼。中庭を建物が囲む構造になっている。建物はナシ族の伝統的な木造建築の様式。
私が泊まった客房。簡素だが清潔。ベッドも頑丈な造りの木製。