古城には道路が迷路のように、網の目のようにつながっている。西安の袁毅は去年夫婦で麗江に行ったが、「私はあそこに行ったら、すぐ迷子になった。道が似ているし、店も似ています」と言った。古城内の四方に道が通じていて、どこも似たようなたたずまいで。確かに迷いやすく、海珠が地図を片手に的確に判断してくれたので迷うことはなかったが、それでも一度来た道でも、右へ行くのか左に行くのかと戸惑うことがあった。
その道も古城の西北部に来ると比較的広い場所に出る。四方街と言う。
この広場は名称のとおり古城の四方に道が通じている。東へ通じる道は五一街、西には黄山下段、南には七一街、北には東大街と新華街がある。このうち東大街が最も広く、北に通じているのになぜ東大街と言うのかは分からないが、古城外の新城区に通じる。
四方街には観光客が多く集う。その観光客を目当てに馬で城内をめぐる商売をする者もいる。麗江はその昔、麗江南方の大理で加工された雲南茶などをチベットなど西方に運び、馬などを持って帰る交易路であった「茶馬古道」の基地だった。その茶馬古道を行き交いした馬に乗ってもらおうというものだ。
馬曳きはレッサーパンダの毛皮の帽子をかぶり、ヤクの毛皮の上着を着ている。
東大街と新華街との間に西河という川があり、それに沿って酒吧条街がある。酒吧はバーで、このあたりには昼はレストラン、夜はバーという店が並んでいる。「SAKURA」などという店もあるのは日本人観光客目当てのものだろう。ここだけでなく、とにかく観光化が著しく、少々興醒めするほどだ。
四方街の西に通ずる細く狭い黄山下段と言う街路があり、すぐに比較的急な坂道になり、獅子山と言う小高い所に行き着く。ここから古城が一望できる。
麗江古城には中国の各地の古い城市にあるような城壁がない。言い伝えによれば麗江の支配者は木氏であったから、これを城壁で囲むと「困」となるので造らなかったと言うのだが、真偽の程は分らない。まあ、それだけ長い年月の間、外敵と戦うこともない平和な時代が続いたということなのかも知れない。
その道も古城の西北部に来ると比較的広い場所に出る。四方街と言う。
この広場は名称のとおり古城の四方に道が通じている。東へ通じる道は五一街、西には黄山下段、南には七一街、北には東大街と新華街がある。このうち東大街が最も広く、北に通じているのになぜ東大街と言うのかは分からないが、古城外の新城区に通じる。
四方街には観光客が多く集う。その観光客を目当てに馬で城内をめぐる商売をする者もいる。麗江はその昔、麗江南方の大理で加工された雲南茶などをチベットなど西方に運び、馬などを持って帰る交易路であった「茶馬古道」の基地だった。その茶馬古道を行き交いした馬に乗ってもらおうというものだ。
馬曳きはレッサーパンダの毛皮の帽子をかぶり、ヤクの毛皮の上着を着ている。
東大街と新華街との間に西河という川があり、それに沿って酒吧条街がある。酒吧はバーで、このあたりには昼はレストラン、夜はバーという店が並んでいる。「SAKURA」などという店もあるのは日本人観光客目当てのものだろう。ここだけでなく、とにかく観光化が著しく、少々興醒めするほどだ。
四方街の西に通ずる細く狭い黄山下段と言う街路があり、すぐに比較的急な坂道になり、獅子山と言う小高い所に行き着く。ここから古城が一望できる。
麗江古城には中国の各地の古い城市にあるような城壁がない。言い伝えによれば麗江の支配者は木氏であったから、これを城壁で囲むと「困」となるので造らなかったと言うのだが、真偽の程は分らない。まあ、それだけ長い年月の間、外敵と戦うこともない平和な時代が続いたということなのかも知れない。