中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

江南の旅(2) 蘇州②

2008-12-21 21:03:19 | 中国のこと
 蘇州古城の外側、東北のところ山塘街という古い町並みがあります。この山塘街は古城を取り囲んでいる外城河から分かれて、蘇州の観光名所のひとつである虎丘に続く山塘河に沿って続いています。

 山塘街の歴史は唐代の宝暦年間(885年)に始まるそうです。詩人として有名な白居易が蘇州の知事として赴任後、山塘河を開鑿して灌漑と交通の便を大きく改善した事跡に因んで山塘街を白公堤と称したと言います。唐代以降には山塘街は物資の集積地となり繁栄し、多くの文人墨客も訪れ、有名な小説「紅楼夢」にも紹介されているそうです。











古風な看板


小学校の門


 戯台。蘇州の楽曲である評弾(ピンタン)を演奏していました。


 山塘河。観光船が舫っている。前方の橋は新民橋。


 前方の橋は通貴橋。このあたりから船に乗り、虎丘に向いました。


 

愛してる

2008-12-19 21:16:38 | 身辺雑記
 昨夜の忘年会でのこと、何かの話の流れの中である男性が、私も含めた他の男性に向って「奥さんに愛していると言ったことはある?」と尋ねた。私は「あるよ」と答えたが、他の男性達もはっきりとはしなかったものの何となくあるような感じだった。

 すると問いかけた男性は「そうかなあ。僕は一度もない」と言い、さらに「だいたい愛してるなんて、英語のアイラブユーを訳したもので日本語ではない」と言いつのったので皆笑った。自分の女房に愛してるなんて恥ずかしくて言えない、2人で外を歩くときは少し離れて歩く、手を握ったこともないと少し威張るように言う。よく見聞きする日本の年配の夫婦の姿だ。私の高校生の頃、両親が連れ立って歩くとき、母が父に寄り添って父の肘に腕を軽く手を添えて歩くのを見て、いいなあと思ったという話をしたが、たしかにそれは少し珍しい光景だったのかも知れない。

 そうこう話が盛り上がったときに、1人の女性が「中国人も我愛你(ウォアイニイ)なんて言わないと思うよ」と言ったので、またひとしきりそのことで話が弾んだ。私は言うのではないかという意見だったが、確信はないので中国の友人に聞いてみるということにした。

 それで今日、まず西安に出産のために帰っている上海の孫璇にチャットで聞いてみた。彼女は「恋人同士はたぶんよく我愛你を言うが、夫婦の間はあまり言わないね。中国人は」、「中国人も日本人も同じ」と言い、さらに「我喜歓你 (ウォシイファンニイ)をよく言うね」と言った。「あなたが好き」ということだ。彼女は、「我愛你は手紙とかメールとかでよく使うけれど、口に出すのはやはりちょっと恥ずかしいね」とも言ったが、何となく分かるような気がした。

 2月に出産する西安の李真にも聞いてみたが、恋人同士はよく言うだろうし、まだ子どものいない若い夫婦も言うだろう、人によって違いますねと言い「陳偉(夫)はほとんど言ってくれなかったです。それでも安心です」と言ったので「李真は言ったか」と聞いたら「あんまり。冗談するとき言ったかな」と答えた。若い新婚の2人でもその程度のようで、彼女の言うように人によって違うのだろう。

 東京にいるまだ未婚の上海人の施路敏に聞くと、「言われたことはないですね。ははは」と笑い、普通はあまり口にしない、恋人の間でもあまり言わないですねと言った。我喜歓你は言うと思う、愛してるとは軽く言えない、愛というのはちょっと重いでしょう、私はそう思っていますと言う。いかにも純情な施路敏らしい答えだった。

 母親になった西安の謝俊麗に電話で聞いたら、子どもに「媽媽(ママ)愛你」と言っているようだ。「かあさんはお前が好きよ」。そこには喜歓以上の気持ちが込められているようで、母親の愛情の深さを感じさせる。劉君(夫)には言わないかと聞いたら、最近は言わないねと笑った。

 こういうことで、忘年会で女性の1人が言ったように、どうやら中国人も我愛你とはあまり言わないようだ。西欧的文語的表現なのかも知れない。話のきっかけをつくった男性が言ったように、「愛してるは日本語ではない」は極端にしても、訳語的な感じで、日本人の感覚とは異質なものがあるのかも知れない。私が李真に、日本人と中国人は似ているということかなと言ったら、アジア人だねと答えた。そうなのかも知れない。

 のろけるつもりは毛頭ないが、妻は私にとっては「好きだ」以上の「愛している」という感情の対象だったと今も思っている。

                

江南の旅  蘇州

2008-12-18 11:55:53 | 中国のこと
 今回の旅は蘇州から始めました。蘇州は古くから江南地方の主要な都市として栄えてきました。今から約2500年前の春秋時代には呉越の戦いで有名な呉の都が置かれていたという古い都市です。その後いろいろな変遷を経て北宋時代(960年~1127年)に平江府と呼ばれるようになりました。この「平江」という名称は、今も蘇州古城内に残っています。

 蘇州は昔から運河と街が隣り合い、水陸の道が併行して走っている碁盤の目のような構造の城郭と街並みであったことが、古地図からも分かるようですが、蘇州古城の中で最もよく古い景観が保存されている地域である「平江歴史街区」は、唐宋時代の街並みの構造が引き継がれているそうです。この歴史街区にはいろいろと見所があるようですが、今回は平江河と平行して続く平江路を散策しました。河岸には明清時代の建物が並び、静かで穏やかな雰囲気でした。













 水路が多いので橋も多くあります。橋はすべて石造りです。





 蘇州の運河は、最近まで水質が悪化して悪臭を放っていたそうですが、浄化作業が進んで、今ではきれいになっています。




謝意と謝罪

2008-12-15 23:12:25 | 中国のこと
 今『日本と中国―相互誤解の構造』(中公新書)を読んでいる。著者は王敏(ワン・ミン)、中国河北省生まれの女性研究者で、法政大学国際日本学研究所教授。宮沢賢治の研究者として知られている。この本は日本と中国の文化、国民性の違いを述べたもので非常に面白い。この中に次のような一節がある。
 
 中国社会では、謝意はそのとき限りが普通である。しかし「井戸を掘った人を忘れるな」という言葉がよく知られているように、中国でも感謝を子々孫々忘れてはいけないと教える。感謝すべき出来事なり対象なりが違うからである。ひとことで区別するのはむずかしいが、大義にかかわることは銘記され、日常的なことは一回の謝意で十分と考えるのである。一方、謝罪の行為は恥とは思われない。間違いを謝罪する行為はむしろ評価され、信用は高まる。謝罪に対して寛容な対応を示すことが評価される。謝罪すべき事態で謝罪しないときには厳しくなる。謝罪のほうは繰り返すことによって真意が伝わると考えるのが普通である。

 ここを読んで思い出したことがあった。何年か前に西安の李真の家で夕食をご馳走になった翌日に、李真と会ったときに「昨日は有難う」と言うと怪訝そうな顔をした。「昨日はご馳走になって有難う」ともう一度言うと「先生(当時はまだ爺爺と呼ばれていなかった)はお礼の言い過ぎだよ」と言われたので、そんなものかなと少し違和感を覚えた。今にして思えば「謝意は一回で十分」ということだったのだろう。日本人であると「先日はどうも(ありがとうございました)」などと言うのはごくありふれたことで、むしろそれが礼儀に適ったものと考えられることなのだが、中国人にとっては日常的ではないことなのだろう。このような些細なことにも彼我の違いはあるものだ。どちらが良いのかということではなく、それぞれの国民性なのだ。

 謝罪についても日本と中国の違いを痛感するのは、先の戦争について、中国に謝罪するということがしばしばわが国では問題になることだ。国として一度謝ればそれでいいではないか、何度も謝罪を求めるのはしつこいと中国を非難する声もある。中国では日本が謝罪を繰り返すことで日本を評価し、そこから両国間の堅固で良い関係が構築されると考えるのだろう。だから国としてはもちろんのことだが、日本の一部にあるように、日本は中国を侵略などしてはいない、残虐行為などはしていないなどと言えば反発も強いのは当然だ。

 この本にもあるが、日本には「以心伝心」の風がある。多言しなくても解るだろうということは中国人や欧米人にはなかなか理解しにくいことらしい。だから謝るにしても明確な言葉で表現し、相手の対応からそれが十分に伝わっていないのではないかと思われたら、何度でも繰り返せばいい。それは恥でもなく面子がなくなることでもない。誠実な態度や行為は、民族や国民性の違いを越えて相互に理解されるものだと思う。

               
 


西安で(14) 雑記・雑感

2008-12-13 23:38:46 | 中国のこと
日本人観光客
 西安を訪れる観光客はめっきり減っているようだ。実際西安滞在中、日本人観光客の姿を見かけた記憶がない。西安中国国際旅行社の李真や袁毅はとても暇だと言っている。餃子事件、四川大地震、金融危機による経済状態の悪化などが原因らしい。今秋の西安の旅で改めて古都西安の魅力を再認識したが、それだけに何か寂しい状況だと思う。

如家
 最近は上海やその近辺ではよく如家快捷酒店というホテルを利用する。看板にはHOME  INN とあるようにいわゆる星付のホテルではない、いたってカジュアルなホテルで、料金も朝食付きで250元(3,500円)程度で安い。と言っても寝室は広く清潔だし、バスタブはないがシャワーで十分である。このホテルは全国チェーン店で、あちこちの省にあり、西安でも利用した。気に入っている。清潔で気楽で安全なのがいい。


メイド・イン・チャイナ
 謝俊麗の子どもの満月酒に出席したとき、料理が運ばれてくる前にテーブルにあったキャンディーを手に取って包装紙を破ろうとした。日本でもよくある、縁にぎざぎざがついているもので、そこから破ろうとしたが破れない。もたもたしているとそばにいた李真が「メイド・イン・チャイナ」と言って笑った。中国のものだから(あまり良くない)というやや自嘲気味の冗談のようだった。日本では何かにつけて中国製品が問題になるが、中国人自身も中国製品の一部には問題があると思っている向きがあるようだ。とりわけ乳製品のメラミン混入問題には李真も袁毅も謝俊麗もかなり頭にきているようで、厳しく批判していた。李真の言葉を聞いて、かつての「メイド・イン・ジャパン」を思い出した。それは日本製品の品質が良くないことや物まね製品であることを揶揄する意味だった時代があった。今ではむしろ優れた製品の証のようになっているが、メイド・イン・チャイナもやがてはそうなるのだろうか。

交通事情
 西安の交通事情は初めて訪れた10年前に比べると悪くなっている。車が非常に増え、交通渋滞も多いし、車の衝突事故も多い。市内の一部では3年後に開通予定の地下鉄の工事が進行中で、工事部分では交通渋滞がなおさらひどい。タクシーは10年前よりは車体は良くなったし初乗り6元(約80円)と安いが、相変わらずかなり荒っぽい運転が多いようだ。

小学生の授業
 友人の袁毅の両親の家で会った姪の丫丫(ヤヤ)は小学校1年生。学校の様子を聞いてみるとなかなかハードな毎日だ。朝6時半から7時の間に起きて登校。学校の始業は7時45分、終業は5時で1日は5時間。昼休みは2時間ほどあるようだ。学科は日本と似ているが、英語が週に何時間かある。中国の小中学生の学校生活は日本に比べると概してハードスケジュールだ。これまでにも朝早くに登校する子ども達をよく見かけたものだ。丫丫は袁毅の両親の家で母親と一緒に住んでいる。帰るときにエレベーターの前まで見送ってくれたので、“Are you a boy?”と冗談でたずねたら、“I am a girl”とまじめな顔で上手な発音で答えた。


咸鴨蛋(シエンヤァタン)
 アヒルの塩漬けの卵。上海から西安への国内線の機内食に付いていて、おいしかったので李真に話すと、わざわざ母親が買ってみやげに持たせてくれた。かなり塩辛く、砕いて粥に混ぜて食べるととても旨いが、日本人は人によって好き嫌いが分かれるだろう。これに限らず中国にはおいしい食べ物が多いが、今では警戒心が先に立って中国食品=有害であるかのように敬遠する日本人は多いようだ。惜しいことだと思う。


今年の漢字

2008-12-12 23:08:11 | 身辺雑記
 日本漢字能力検定協会が公募で選び、京都清水寺の管主が大きな和紙に揮毫することで知られる「今年の漢字」が発表された。

 1位は6031人が応募した「変」で、2位の「金」(3211人)を大きく引き離して「今年の漢字」に選ばれた。理由は「政治、経済をはじめ良くも悪くも変化の多かった1年。来年は世の中も自分達も新しく変わっていき、希望のある社会にしていきたい」と言うことらしい。

 「良くも悪くも変化の多かった1年」とは言うが、どうも良い変化はあまり思いつかない。米国では「CHANGE」をスローガンに掲げた民主党のオバマ候補が選挙戦で圧勝し、米国史上初のアフリカ系の大統領が誕生することになった。これなどは米国にとってめざましい「変革」だろう。日本でも「政変」はあったが、首相が突然職を投げ出すというお粗末極まるものだった。その後も期待されていた政治の「変革」は起こらなかった。株価や為替レートは連日激しく「変動」し、さまざまな混乱を引き起こしている。たしかに来年は新しく変わってほしいものだが、さて、どうなっていくのだろうか。

 ちなみに、今年の漢字の3位以下は、「落」、「食」、「乱」、「高」、「株」、「不」、「毒」、「薬」だったそうだ。人それぞれに思うところがあるのだろう。

  
 また、ここ10年の「今年の漢字」は次のようになっている。

 1998年 「毒」 
 1999年 「末」 
 2000年 「金」 
 2001年 「戦」
 2002年 「帰」
 2003年 「虎」
 2004年 「災」
 2005年 「愛」
 2006年 「命」
 2007年 「偽」
 
 今年も後わずかとなった。私にとってもそれなりにいろいろなことはあったが、あまり大きな「変化」はなかった。強いて言えば、孫に初めて大学生が誕生したくらいのものだろうか。

            毎日jpより

          



西安で(13) 満月酒

2008-12-11 10:27:05 | 中国のこと
 謝俊麗(シェ・チュンリィ)の子どもが生後1ヶ月を迎え、その祝いの席に招かれた。1ヶ月の誕生祝は満月酒(マンユエチョウ)と言われ、この時には親戚や友人、知人を招いて祝う。

 俊麗の子どもは男の子で、9月16日に生まれた。1ヶ月のときはまだ名前は付けてなくて、愛称は撓撓(ナオナオ)だった。撓は痒いところを掻く(撓撓痒痒ナオナオヤンヤン)の意味で、胎内にいる時に麗は体が痒くて掻いていたので愛称にしたようだ。変わった由来だ。名前は3ヶ月以内につければいいそうだ。

 生後1週間の撓撓。


 撓撓の満月酒はあるレストランで開かれ、40人ほどが招かれた。祝いの席と言っても出席者は両親はじめ皆平服で気楽な雰囲気だった。昔から親戚や隣近所のものが集まって祝ったものだろう。俊麗にあれは誰かと尋ねてもよく知らないと言う人もいた。


 友人たち。


 撓撓を抱く俊麗。


 おじいちゃんに抱かれる撓撓。


 従姉の可可(クク)は撓撓をとても可愛がるそうだ。


 果果(グオグオ)と小雨(シャオユイ)。1年前に会った時よりもだいぶ大きくなっていた。果果(向って左)は相変わらずおっとりしていて、小雨は愛嬌がある。2人ともとても可愛い。


 妊娠中の李真夫妻も出席していた。李真は俊麗と仲が良い。


 最近送られてきた3ヶ月目の撓撓。すっかり大きくなり、寺の小坊主みたいだなと俊麗にチャットで言ったら、そうねと笑っていた。中国では生後間もない嬰児の髪は短くする風習らしい。今では自軒(ツシュアン)という名前がついている。


 11月に上海でガイドしてくれた梁莉(リャンリィ)は西南地方の広西チワン族自治区東部の農村の出身だが、そこでは満月酒は男の子の場合にだけするそうだ。元来そうであったのかも知れない。

座席を譲る

2008-12-10 08:28:35 | 身辺雑記
 きのうの朝刊の読者の声欄に「座席を譲る」と題して、2つの投書が載っていた。

 1つは76歳の女性のもので、夫と富山・黒部峡谷のトロッコに乗った時、入り口に立っていると男子学生のグループが奥のほうから手招きした。近寄ると1人が立ち上がって、席を譲ってくれた。言葉の様子から中国人らしかったという。終点について礼を言って頭を下げると、学生たちが怪訝な顔をした。席を譲ったことなどまったく頭にない様子だったらしい。そして、「私の娘時代は、お年寄り、弱々しい人、幼い子に席を譲るのは常識でした。戦後、自由が急に進んだ中で、道徳、思いやりの心という落し物をしているような気がしてなりません」と結んでいる。

 もう1つは72歳の男性のもので、ハワイのホノルルでバスに乗ると、停留所に止まる度に、乗客はちらっと入り口に目をやり、自分より席が必要そうな人が乗ってくるとさっと席を譲ると言い、10年は住んでいたアメリカではよほど席がある場合を除いて乗り物に子どもが座ることはないとも書いている。知人の話では、韓国、オーストラリアでも年配者を立たせて若者が席にふんぞり返っていることはないと言い、「年末年始に海外に旅行される人は買い物に終始せず、こんなマナーを見て帰ってほしい」と結んでいる。

 これまでめったに席を譲ってもらったことのない私は、混んでいる車内の優先座席にのさばっている若者の姿などは見慣れているから、この2つの投書を読み、改めて頷いたことだった。

 きのうの朝は用事があるので大阪に出たが、地下鉄に乗り、次の駅で降りるから入り口のそばに立ってなんとなく車内を眺めていた。すると視線の先に座っていた若い男性と目が合うと、彼は自分の横を指差し、いかがですかというような仕草をした。私は少し驚いて頭を下げてから手を振って辞退すると、その青年はにこりとした。朝家を出る前に2つの投書を読んでいただけに何やら心温まる思いがした。

 帰途、また地下鉄に乗ると3人掛けの座席の中央が空いていたが、左端の肥満した60歳代の男性が斜めに座り、しかも両脚を広げて片脚を中の空席の前に出していて、その席に座ることができない。私は次で降りるから座るつもりはなかったが、私の後から入ってきた人が立ってもその姿勢を崩さなかった。無神経というか傍若無人というか、いい年をしてバカな奴だと腹立たしく思った。

 他人への思いやりが乏しいことやマナーの悪いことは年齢には関係ないようだ。たしかに若者の傍若無人な態度には眉をひそめさせられるものがあるが、年寄りにもどうかと思う行動はある。総じて、私たちの周辺では社会的なモラルが低下しているのだろう。

 

 

西安で(12) 大雁塔

2008-12-09 08:29:57 | 中国のこと
 西安城外南東部にある大雁塔は、城内中心部にある明代の鐘楼とともに西安のシンボルとされている。

 北公園から見た大雁塔。あいにくの小雨模様の天候ではっきりしない。


 大雁塔は大慈恩寺にある。この寺は隋代に建立され無漏寺と言ったが、648年に唐の太子の李治(後の三代皇帝高宗)が亡母文徳皇后の冥福を祈るために慈恩寺と改名した。大雁塔は、652年に唐の高僧玄奘三蔵が、インドから持ち帰った経典や仏像などを保存するために、高宗に願い出て建立した塔である。後の701~704年の則天武后の時代に建て替えられた。

 南公園の玄奘三蔵像。


 山門


 鐘楼


 鼓楼


 本殿(大雄宝殿)と塔。


 本殿の前の蝋燭。中国の寺院の蝋燭は紅い。


 塔の高さは64mで四面7層。
   

 見事な構造である。

 
 この塔にはこれまで数回訪れたことがあり、最上階まで登ったことがあるが、階段は急である。高いところは苦手でもあり、脚も悪いので今回は登らなかった。





嵐山・嵯峨野(2)

2008-12-08 11:00:35 | 身辺雑記
 嵯峨野に足を伸ばす。 

 落柿舎。俳人向井去来の別荘。芭蕉はここで「嵯峨日記」を書いた。現在の建物は明治初年のもの。




 嵯峨野の竹薮




 竹工芸品の店


  野宮(ののみや)神社。天皇の代理で伊勢神宮に仕える斎王(皇女、女王の中から選ばれる)が伊勢へ向う前に身を清めたところ。




 鳥居は黒木鳥居と言う樹皮のついたままのもので、鳥居の形式としては原始的な日本最古のものと言う。


 常寂光寺の近くの紅葉。








 雑踏。誰かが、人を見に来たみたいと言っているのを聞いた。






 かわいい地蔵


 練塀


 ハナミズキ


 ある割烹の店先で。縮緬細工の料理見本。
  

 和菓子屋の店先で。