中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

麗江への旅(3)麗江古城へ

2010-03-17 10:52:13 | 中国のこと
 麗江空港に着き、海珠があらかじめ手配していた車で宿に向かう。6時半ごろであたりはまだ明るかった。途中には田園風景が広がり、菜の花が咲き小麦が穂を出して、いかにも春らしい風景である。



 
 麗江の少数民族、納西(ナシ)族の民家。白い壁に黒い屋根。


 30分ほど走って麗江の旧市街、麗江古城にある宿に到着した。

 麗江(リイジャン)は雲南省西北部にあり、面積は7,648平方キロ、人口は約111万人で、最も多いナシ族の他に、リス族、パイ(白)族などの少数民族が多数を占め、漢族よりも多い。
 麗江にナシ族が住み着いたのは8世紀と古く、青海省から南下してきたと言われている。13世紀の終わりごろに元がこの地のナシ族の領主の木(ムウ)氏に「麗江宣慰司」の称号を与えてから麗江の名が始まったと言う。明、清、民国時代も木氏の支配は続き、社会制度は奴隷制だった。1949年に毛沢東の人民解放軍が入城し、麗江県人民政府が成立した。1961年に麗江納西自治県となったが、2006年に周辺地区を併せて麗江市となった。現在でも支配階級であった「木」姓があり、また奴隷的被支配階級だった「和」の姓が多くあるようだ。
 ナシ族が作り上げた独自の景観を持つ旧市街が麗江古城で、「大研鎮」と呼ばれる。南宋時代(12~13世紀)につくられ、約800年の歴史がある。1997年に世界文化遺産に登録され、以来国の内外から多数の観光客が訪れている。


 今回とった宿は「人和春天」客桟と言った。客桟はホテル(賓館ピンクアン、飯店ハンティエン)よりも庶民的な、「宿屋」と言ったところだ。

 宿の事務室兼バー兼ロビーのある建物。


 受付兼バー


 このバーの右手に茶を入れる卓を囲んで椅子がおいてあり、ここで毎晩経営者夫妻と宿泊客が茶を飲みながら遅くまで談笑した。茶は経営者の夫人が淹れてくれることもあるが、客で心得のあるものは誰が淹れてもいいということだった。出されたウーロン茶もブーアール茶もなかなか好かった。


 経営者夫妻。夫は陳欣(チェン・シン)さん、妻は周姸(チョウ・ヤン)さんと言う。四川省からこの地に来たそうだ。ナシ族の土地を借り受けて、この宿を造るまでにはいろいろ苦労もあったらしい。宿の実務はもっぱら夫人の周さんがしているとのことだ。夫妻とも宿泊客と気楽に話しこむ、人好きのする気さくな人柄だった。

 
 客房楼への入り口。


 客房楼。中庭を建物が囲む構造になっている。建物はナシ族の伝統的な木造建築の様式。




 私が泊まった客房。簡素だが清潔。ベッドも頑丈な造りの木製。







                

麗江への旅(2) 広州→昆明→麗江

2010-03-16 09:47:03 | 中国のこと
 第2日目。朝、伍海珠がホテルまで迎えに来てくれてタクシーで空港に向かう。彼女は2008年に広東省西部を旅行した時に同行してくれたが、それ以前にも、2004年と2006年に貴州省に行った時に広州で乗り継ぎをした際にも世話になっている。しゃきしゃき、はきはきした性格ではないが、真面目で物静か、穏やかにきめ細かく世話をしてくれるので安心できる。広州中国青年旅行社日本部の部長をしているベテラン。


 麗江までの直通便はなく、途中雲南省の省都の昆明に立ち寄り、そこまでの乗客を降ろし、昆明からの乗客を乗せて麗江に向かう。南方航空の3487便で12時前に発ち、2時間足らずで昆明に着く。やはり機中では手持ち無沙汰だったが、窓際の席だったので窓外を見ていると、珍しくすれ違う機体を見た。これまでにも2回ほど見たことがあるが、今回は短い間に2機続けて見てみたので子どものように興味を持って眺めていると、結局5機の機影を見た。窓外を見ていると機体はまるで動いていないのかと思うほどゆっくり進んでいるように感じるのだが、すれ違った機体はツ、ツ、ツーという感じで猛スピードで飛び去って行く。こちらは時速何百キロほど、あちらも同じだから、そのように見えるのは当然なのだが、それでも向こうだけが舞台の上手から下手に向かってさっと通り過ぎて行くように見えるのが面白かった。初めの2機は遙か下の方を飛んでいたので、翼もはっきりせず、まるで白く光る小魚のようだった。3機目は少し近く見え、4機目は左斜め前方からやってきてこちらの機体の下を通り過ぎて行った。5機目は同じ方向に向かっていてこちらよりも速く、やがて追い越して行った。それ以上見ることはできなかったが、お蔭で少し退屈せずにすみ、そのうちに昆明に近づいた。

 昆明は大都市だが、それでも周辺は大規模に開発されているようで、山が広く切り開かれていて、中には非常に広く平地にされている所もあった。日本ならちょっとした小都市くらいの広さに見えた。




 昆明巫家壩空港に着くと荷物は置いたまま、いったん機外に出てすぐそばの待合室のある建物に入り3、40分待機する。その間に機内の清掃が行われる。ここを中継地とする路線は多いらしく、いくつかの航空会社の機体が停まっていた。


 われわれが乗ってきた波音(ボウイン=ボーイング)。


 やがて合図があったので再び機内に入り、前の座席に座ったが、いつまでも動き出さない。前の搭乗口のあたりでは乗務員達がざわざわしている。理由が分からないので、またかと思った。これまでにもたびたび南方航空の国内便では遅れたり、ひどい時には予定便が取り消されたことがあったからだ。やがて機内放送でパイロットから説明があったが、海珠によると病人が出たらしい。そのうちに救急車が来て医師や看護師らしいのが乗り込んできたが、しばらくしてから病人を連れ出し救急車に乗せた。



 ところが救急車が行ってしまった後も出発しない。かなり待ってから車で客室乗務員が1人やってきて乗り込んできた。どうやら急病人は乗客ではなく客室乗務員だったようだ。それからしばらくしてやっと出発したが、麗江三義空港に着いたのは予定より2時間近く遅れた6時頃だった。

 麗江付近の上空で。麗江は山岳地帯の中にある。


 麗江三義空港着。


 空港ターミナルビル。


麗江への旅

2010-03-15 09:56:09 | 中国のこと
 5日から10日まで中国雲南省麗江へ出かけた。関西空港から広州まで国際便、広東省広州から雲南省昆明を経て麗江に行く経路だが、広州着が18時30分という遅い便だったし、帰途の麗江―広州便は広州着が19時40分だったので、往復ともに広州で1泊し、広州でも時間がなかったのはやや無駄な感じがしたが、止むを得なかった。

 第1日目は中国民間航空の中国南方航空の390便で広州に向かう。中国の民間航空会社は昨年度で33社で、そのうち旅客航空会社が24社、33社が所有する航空機は合計1259機で、1532路線に投入されているという。このうち中国南方航空、中国東方航空、中国国際航空の、旧国営から民営化された3社が大手である。南方航空は広州に、東方航空は上海に、国際航空は北京にそれぞれ本拠地があるが、中でも南方航空が旅客数、便数、飛行時間などで中国最大で、広州白雲国際空港と北京首都国際空港をハブ空港にしている。広州行きにはJALの便もあるが運賃が高いので、私はいつも中国の民間航空を利用する。今回の運賃は、関西空港ー広州白雲空港の往復で5万2千円だった。

 私は飛行機はあまり好きではない。怖いと言うのではなく、狭い機内の座席で何時間もじっとしているのが苦手なのだ。文庫本などを持っていくがいつもあまり読む気が起こらず、それに座席にもたれた姿勢では眠ることもできない。そんなことで上海までの2時間前後の飛行なら何とかなるが、広州までは3時間半から4時間かかるからどうにも退屈してしまう。いつも通路側に座席を取るのだが、今回は横の2席が空いていたので途中で窓際の席に移った。しかし外を見ても高度1万メートル以上で、それに広州までずっと曇っていたから、眼下に見えるのは雲ばかりで退屈を紛らわせることもできない。




 それでも順調なフライトで、予定の18時30分(現地時間。日本との時差は1時間)には広州に到着し、麗江まで同行してくれる広州中国青年旅行社日本部の伍海珠(ウ・ハイチュウ)の出迎えを受けた。広州白雲空港は大きな空港で、北京オリンピックで北京首都国際空港が増築されるまでは中国最大だった。
 
 路線バスで宿泊先のホテルのある地区まで行きホテル「7days inn」にチェックインし、その後その日3月5日はちょうど伍海珠の誕生日だったので,ホテルの前の薬膳料理店でささやかに誕生祝をした。

               バス停終点で。


悲し過ぎる出来事

2010-03-12 10:59:46 | 身辺雑記
 麗江への旅に出る前に、信じられないような事件が報じられた。5歳になる男の子が両親から食事を与えられずに餓死した。

 奈良県桜井市の26歳の母親は、1月初め頃からこの男の子に朝に1回だけしか食事や水を与えず、35歳の父親も男の子が衰弱しているのが分かっていても何もせず、妻にも何も言わなかった。母親はこの子に暴行も加えていたようで、その動機は、長女が誕生した3年前ごろから夫と不仲になり、男の子も反抗的な態度をとるようになった。男の子が夫に似ているので憎むようになったという呆れるようなものだ。男の子は栄養失調による急性心不全で死亡したが、5歳児では通常15~20キロある体重は6.2キロしかなく、骨と皮の状態だったと言う。

 これまでにも親による子どもの虐待死は少なくないが、これはまったく言いようのない異常な仕打ちだ。母親というものは、仲が悪い夫に似ているという理由で、腹を痛めた我が子を虐待できるものなのか。幼児も成長するにつれてわがままを言ったり、反抗したりするものではないか。そのことも虐待の理由になるとは、その母性の欠如には呆れてしまう。西安の謝俊麗の息子の撓撓(ナオナオ)は1歳半になるが、毎日昼寝から目覚めると「ママ、ママ」と呼び、夜ベッドに入ると俊麗のパジャマを握りながら寝入るそうだ。子どもにとって母親というものは、そのように寄りすがり、安心したい存在なのだ。それに父親というものは育児は妻に任せたといって、我が子が衰弱していくのを傍観できるものなのか。まったく揃いも揃って、とんでもない異様な精神状態の夫婦と言うほかはない。いったいこの2人はどのような家庭に育ったのだろう。

 麗江へ行く時に関西空港から乗った機内に置いてあった新聞の1面のコラムの中に次のような文があった。

 「子供は親に似るものである。薔薇の木に薔薇の花が咲くごとく、何の不思議もない。似ているだけで、ただそれだけで、5歳の子がなぜ、親から『死』を与えられねばならないのだろう」

 そのとおりだと思った。

 この新聞の社会面には、この夫婦がほぼ毎週末の朝、男の子を家に残して、可愛がっていたという3歳の娘を連れて外出していたという記事もあった。男の子がアパート2階の家の窓から3人の楽しそうな姿をじっと見つめる姿がしばしば目撃され、近くのガソリンスタンドの店員は「すごく寂しそうだった」と話していたという。この記事を読んで私は、窓から両親や妹の姿を見つめている男の子の後ろ姿を想像し、いったいこの子は何を思っていたのだろうと、その哀れさに思わず涙が出てしまった。その後も旅行の毎日の中で何度もその姿を思い、そのたびに涙ぐんだ。子どもに関する出来事で近頃これほど胸に応えたものはない。

 このような母親を週刊誌的な表現で「鬼母」などと言うのは簡単なことだが、何かそのような表現では言い尽くせない、深く暗いものを感じる。このような人間にどのように贖罪させたらよいのか。愚かな感情による、親として人間としてやってはならない己の行為にどのように向き合わせるのか。ただ一定期間獄中に置けばよいというものではないと思う。

 この子の不幸はもちろん言葉では言い尽くせないものだが、3歳になる妹もこれからしばらくの間は親と一緒に暮らすことができないままに過ごさなければならない。将来再び親と生活できることがあっても、自分の兄が親の手で幼い命を失ったことをどのように聞かされ理解するのだろう。この娘も不幸だと思う。

 失われた命は再び戻ることはない。もしあの世というものがあるならば、この世では何の愛情も喜びも与えられなかった、この幼い男の子の哀れな魂が、そこに安らかに眠る場を見つけることができるように。

              

確定申告

2010-03-11 09:53:18 | 身辺雑記
 今年も所得税の確定申告の期日が迫っている。5日から10日までは旅行に行っていて不在だったので、帰ってからでは15日の提出期日まで日がないからばたばたするのも嫌で、出発までには申告を済ませた。

 確定申告は勤めていた頃は事務の人達の手ですべてやってもらっていたから、自分では何もすることなく、結果だけを知って「今年も戻ってきた」とか何とか言って気楽なものだった。それが年金生活に入るとそうは行かず、税務署から送ってくる用紙に記入して提出しなければならない。収入と言えば年金だけなのだから簡単そうに思えるが、それがなかなか厄介だ。根本にはこのような類の作業に慣れていないし面倒くさいからと言うことがある。だからぐずぐずしてなかなか取り掛からず、いざ始めてみると不注意からの見落としや計算間違いをしてもたもたし、今更のように過去の事務の人達のご苦労に感謝したものだった。

 3年ほど前から申告の作業はパソコンでやれるようになり、これは大いに有難い事だ。まず国税庁のホームページを開き、そこから「確定申告書等作成コーナー」を開くと、後は指示に従って必要な住所氏名などや金額を該当欄に打ち込んでいけばいい。それも年金生活者で配偶者もいないから簡単で、収入は年金の額だけ、「所得から差し引かれる金額」は、後期高齢者保険料と介護保険料の社会保険料、それに生命保険料だけだ。そうやって数字を打ち込むと計算はあちらのコンピューターがやってくれるから、後は完成した申告書が出てくるのでそれをプリントアウトするだけ。プリントされたものの中には「提出書類等のチェックシート」と言うものがあり、そこには提出先の税務署の宛名も印刷してあるので、それを切り抜いて封筒に貼ればいい。至れり尽くせりで、まったく私のようなぶきっちょでずぼらな者には何とも有難いことである。

 私の打ち込んだ数字に誤りがなかったら、今年度は2,401円の還付があるようだ。このところずっといわゆる「吐き出し」が続いていたから、これもちょっぴり嬉しかった。




幼児の言葉

2010-03-04 09:45:52 | 身辺雑記
 3週間ほど前に西安の謝俊麗が息子の撓撓(ナオナオ)の動画を送ってくれた。それまでにも写真はいろいろ送ってきていて、そのたびにどんどん成長していくのを見るのが楽しかった。この動画の中のナオナオはいっそう大きくなっていたが、何よりも大きな声で何か言っているのが面白かった。

 自分の椅子に座って、可動式の肘掛を外したりはめたりして遊んでいるのだが、その間ずっと何か言っている。「チュバー」とか「アジャア、アジャババア」、「ジュジジィ」とかその他メモできないようなことをいろいろ叫んだり呟いたりしている。ただ意味もないことを出まかせに口にしているのかと言うと、ニコニコと楽しそうに遊びながらだし、抑揚や強弱もあるから何か話しているつもりらしい。

 私の息子達もそうだったが、幼児は遅くても1歳も半ばを過ぎると言葉を話すようになる。ナオナオも身近な家族には、パパ、ママ、イェイェ(おじいちゃん)、ナイナイ(おばあちゃん)、ジェジェ(おねえちゃん)、アアイイ(おばちゃん)、などと言えていたようだが、それ以外はあまり言えないようだった。動画の中でいろいろ言っているのは、おそらくは頭の中にはある言葉を(もちろん中国語だが)、口にしようとしているのだろうが、まとまった音声にはなっていないのだろう。聞くことはもっと前からいろいろよく分かってきていたようだったから、頭の中では言葉は作られているのだと思う。俊麗の話では、単語は言えるが、それを組み合わせることはまだできないようで、「ママ」や「ダッコ」は言えても、「ママ、ダッコ」にはならないらしい。そのうちに言えるようになるだろう。

 「亮(リヤン)」と言えるようになったよと俊麗は言ったが、亮は私の名前で、もうイェイェが言えるのだから、亮爺ちゃん(リヤンイェイェ)も言えるようになるねと言うと、そのつもりで教えていると言ったので嬉しかった。具体的なものの名前は言えても、亮=明るいなどは難しいだろうと言うと、ちょうど春節で飾っていた提灯を指差して「亮」と言ったらしい。

 中国語には幼児語というものがあるのかと聞いたが、ご飯のことを飯飯(ファンファン)と言うことはあるけれどと、あまり思いつかないようだった。日本で例えば「(何々)チテクダチャイ」と言うようなことは中国の子どもにもあるようで,chiは舌を巻いて発音するから子どもには難しく,qiとかtiになると言った。日本人にはよほど中国語に堪能でないと、どれも「チ」に聞こえるし、単語によって発音を区別して正確に言うのは難しい。だから日本人の中国語は中国人が聞くと幼児語のように聞こえることもあるのかなと言うと俊麗は笑っていた。

 私の息子が言葉を言い始めた頃、興味を持って一つ一つメモしていたが,たちまち語彙が増えたし、単語だけでなく句や文になってきたので追いつかないので止めた。ナオナオもこれからどんどん話ができるようになるだろう。電話口でそれを聞くのを楽しみにしている。

              

早春の香り

2010-03-03 08:45:01 | 身辺雑記
 角を曲がればすぐ我が家という所で、かすかによい香りがしたので立ち止まってあたりを見回した。するとすぐそばの0さんの家の庭に沈丁花が見えた。もう咲き始めたのかと近寄ってみると、いくつか花が開いていた。さっき通りかかった路傍にあった沈丁花の蕾はまだ固かったが、ここは日当たりがいいので咲き始めたらしい。次の日に見るともう満開に近くになっていた。

              

 まだ寒さがある中で芳香を漂わせている沈丁花は、いかにも春の訪れを告げているかのようで、私の大好きな花だ。その上品な香りは、沈香という樹から採れる香料に似ることから名づけられた。沈香の最高級品を伽羅と言い。古来珍重されてきた。

 沈丁花に差している光はもう春のものだ。三寒四温の日々の中で感じる「光の春」はまた佳いもので、心が浮き立ってくる。

              

万博公園の梅

2010-03-02 10:47:14 | 身辺雑記
 Hg君たちと雛人形を見たついでに、大阪府吹田市の万博公園まで足を伸ばし、公園内の日本庭園と自然文化園の梅林に行った。日本庭園の梅林には39品種90本、自然文化園の梅林には、5500平方メートルの敷地に131品種610本の梅が植えられていて、梅林に近づくとかぐわしい香りがした。平日だったが若い2人連れや、三脚につけたカメラを持ったアマチュア写真家達が訪れていた。




























命日

2010-03-01 09:13:29 | 身辺雑記
 今日(2月28日)は妻の命日。もう11年が過ぎたが、今もあの時のことが鮮明に記憶に残っている。

 もう1週間くらいと告知されてから、比較的穏やかに過ごしていたが、前日の午後に急にこれまでになかったような苦しみに襲われたので、医師に頼んで鎮静剤を打ってもらった。意識は回復しないですよと言われたが、苦しんでいる姿が哀れだったのでお願いした。その夜は昏々と眠っている顔を見ながら過ごしたが、一夜明けても眠り続けていた。そして、一度も覚めることなく、夕方、私と次男と長男の嫁が見守る中で逝った。何も言い残さずに逝った妻がこの上なく愛おしく哀れだった。担当の医師が来て午後4時7分に死亡と確認したが、実際にはその前に息を引き取っていた。

 海外出張していた長男の帰国を待って2日後に葬儀をしたが、葬儀がすんで、それぞれ忙しかった息子達が帰り、独りになった夜の言いようのない孤独感は忘れることができない。妻が最後の入院をしてから2か月たっていたから、その間も独り住まいだったのだが、そのときには孤独感はなく、毎日病院の妻に会いに行くのがむしろ張り合いがあった。しかし、もうその妻もいなくなった家の中のいたるところに妻の思い出が残っているのに、もうどこにもいないという寂寞感は、深く哀しいものだった。

 あれ以来1日も妻を思い出さない日はなく過ごしてきたが、ただひとつ、逝く前の日に鎮静剤を打った後眠ってしまう前に、なぜ何か話さなかったのかと悔いが残る。ほんの少しでも言葉を交わしていたら、今でもそれを思い出すことができるのにと思う。

 今年も、Hr君やHg君たちと同級で生物部員だったS君の姉から供花が届けられた。妻が逝ってから毎年届けられる。S君は高校を卒業後間もなく腎臓疾患のために死んだ。姉も同じ高校の卒業生で、妻とも面識があったが、それだけの縁でこうしてもう11年も欠かさず花を贈ってもらっているのは有難いことだと思う。これも妻の徳だったのだろうと思うことにしている。

 最近になって時々妻の夢を見る。多くは明け方の夢うつつの時で、妻は元気そうで、その妻に何か尋ねたり話しかけたりしたとたんに目が覚めて、「ああそうだ。もういないのだった」と思う。その何とも言えない寂寞感が哀しく、ひとしきり会いたいと思う。

 存命していたら妻はこの4月で75歳になる。今、心に残っているのは63歳の時の、まだ若さが残っている面影だから、75歳の「おばあさん」の妻の様子は想像できない。妻を知っている人達は、可愛らしい人だったからきっと変わっていないだろうと言ってくれるから、私もそう思うことにしている。