東川広路に設置されている「函館市民憲章」
市内のあちこちに設置されているが。このように立体的なものはここだけ。
自分が若いころ10年間勤めていた東川小学校時代はここに市電が通っていて、歩道橋があった。
市電が廃線になり、その歩道橋が撤去されたあとに、この市民憲章が建てられた。
牛の善光寺
明治32年、場に引かれて行く1頭の牛が逃げ込んだ。哀れに思った住職が買い取って、境内に住ませた。
牛舎建立のために住職が牛を連れて樺太や小樽へ、続いて長野の善光寺にも参拝し、「牛王麿」の称号や背がけ衣装などを賜る数々の厚遇を受けた。18年間も生きた。
石川啄木の家族が住んでいた家がここにあった。
妻節子の姉が宮崎郁雨の奥さんで、ここに郁雨の借家があり、そこに入居していたそうだ。
啄木が函館を離れたあともここに住んでいたらしい。このことは初めて知ったことだった。
栄餅~1900年(明治33年)創業の函館市内でもっとも古い和菓子屋
昔、東川小学校へ勤めたときに寄ったら、奥さんが子供のころ近くの友達の家に同居していた叔母さんだった。
昭和9年の大火で焼けた函館市役所があった場所。前に「函館市役所址」の石碑が立っている。
ここは相馬鉄平が自分の敷地を提供し、多額の寄付もしている。
国際ホテル~ここはニチロビルの1号館の跡地。隣今でも残る2,3号館。
ニチロビルの過去記事
殺生釘~函館に3軒残っている。
目的としては、「魔除け・装飾」「鳥避け対策」「財力誇示」「避雷針」などが考えられる。
函館の場合は大火が多かったため 「火避け」として取り付けられたものだとも考えられている。
東雲広路に立つ「白雲桜」の碑~故函館市長坂本森一嗣子坂本遵寄贈。
白雲は故人の號に因んだもの。昭和23年春植樹。函館市長 宗藤大陸題竝書。
樺太引揚者上陸記念碑~同市に引き揚げた約31万人の上陸を記念するとともに、
船中や上陸後に病院で亡くなった1079人を慰霊するために建立。
大門広小路の角に建つ水天宮~安産と子授かりの神様。1812年高田屋嘉兵衛が分祀したのが始まり
水天宮に残っている箱館戦争の時、旧幕府軍の軍艦「蟠竜」に積載されていたうちのひとつ。
長さ1m36cm、口径8cmのベルギー製の大砲。
昭和9年の大火で焼けて黒くなったと言われている水天宮の狛犬
今日の夕焼け
窓から見たらきれいな夕焼けが広がっていた。明日は良い天気だろう。
今日の夕食はいかめし
今年もイカは獲れてなくて、まだ高くてイカ刺しは食べれていない。
小さめのイカが売られていたので買ってきたという。
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