平戸・千里ヶ浜温泉ホテル蘭風さんより
2)喜多村筠庭(きたむらいんてい)の「嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)」より
いわきの「じゃんがら」はオリジナルなのか?
鉦・太鼓・笛(現在では失われ、遠野地区だけ行われていますが。)
+ 踊り
筠庭の本では泡斎念仏は見ているだけで、
踊られてはいないのではないか。
おもしろく、みんなで、出てきて、
みんなで踊る事は書かれていなく、
お金をあげたり米を与えらたりすることは書かれています。
いわきの「じゃんがら」のように人びとが輪になって踊ることは書かれていない。
また女装などもいわきのオリジナルでは?
1656年(明暦二年)に江戸よりいわきに「じゃんがら」は伝えられた。
1671(寛文十一年)年に禁止令が出された
・・・美麗・大勢(鉦・太鼓・跳舞)ではダメだとの理由で。
それでは、
江戸から入った当時の「じゃんがら」の姿は?
15年で、いわきで変化したのか?
いわきに入る前に行われていた可能性があると。
すなわち、
いわきに来る前に形はあったと。
いわきに入る前の葛西念仏踊り=泡斎念仏踊りの一端が、
喜多村筠庭(きたむらいんてい)の「嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)に書かれていますと。
いのしし君が平戸のじゃんがらを調べてみましたら、
喜多村筠庭(きたむらいんてい)の「嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)に書かれています
様子で、現在行われているようです。(上記の写真や9月25日のブログ参照。)
「ジャンガラ」として。
そこでいのしし君の疑問?
ではなぜいわきでは1671年の禁止令で本来の
明治6年の禁止令で、「じゃんがら」が存在そのものを禁止されたのに、
平戸のジャンガラは禁止されなかったのか?
特に明治6年の禁止令は全国でなされたはずなのに・・・・・
いわきでは禁止!!
平戸では、
江戸から入ったまま(?)で現在まで生き延びてきたのはなぜなのか?
いのしし君の考えでは、
戊辰戦争時に勝者と敗者に分かれて、
いわきは敗者の為、徹底してお上の禁止令を受け入れ、
一方平戸では、勝者の為、禁止令を大目にみたのでは・・・・・
禁止令に異常に反応したからではと考えています。
今後、調べてみたいテーマとなりました。
同じ法でも政策によって変化したのでは?
今の政治の中でも見られる事ですが・・・・・
このようにいわきのじゃんがらは2度の禁止令で、
去勢された形で明治20年代に復活し、現在に引き継がれています。
ちなみに平戸の「ジャンガラ」は
国の民俗 無形民俗文化財(1997年12月15日指定)に指定されています。
平藩主の内藤家と松浦家は近かったので、
江戸から同じころ入った可能性も考えられますが、平戸の文献によりますと
江戸以前から行われているようですから、いわきより早くから行われたようです。
平戸のジャンガラとは、
平戸市内の9地区に伝承されている念仏踊りで、
毎年、八月十四日から十八日にかけて先祖供養・五穀豊穣祈願のとして奉納されるようです。
近世初頭の平戸イギリス商館の記録や平戸藩の記録から、
江戸時代以前から行われていたようです。
「ジャンガラ」の語源については
平戸藩主であった松浦静山の「甲子夜話(かつしやわ)」三編巻ノ一六に
「コノ舞ノ名ヲジャングワラ踊ト云事を記す、此ノ斯ク呼ブ事、何カナル故ソト尋ルニ、ジャント云ハ、鉦ノ音、グワラト云ハ腰鼓ノ声ナリ、
(中略)其声グワラグワラト聞ユユ、因テ里俗、其聞声ヲ指シテ斯ク云う」
・・・・平戸のジャンガラ文化遺産オンラインより
と書かれてあるようですから、
使用される鉦と太鼓の音から定着した名前だと考えられます。
いわきに伝えられた由来と同じですね。
江戸時代には、平戸藩の重要な年中行事の一つとして手厚い保護を受け、
城下組、下組、大下組、の三組が組織され、
毎年旧暦七月一八日には平戸場内で藩主の上覧に供した後に、
城下各所で奉納されたといわれます。
現在では平戸氏の九地区で、盆の先祖供養と雨乞いや五穀豊穣祈願の踊りとして、
神社・仏閣への奉納をはじめ官公署まえや会社の前など市内各所で踊られているそうです。
・・・平戸のジャンガラ文化遺産オンラインより
いわきのじゃんがらは一六五六年に江戸からいわきに入ったことが文献で確認されましが
平戸ではそれ以前から踊られていた可能性があるようですね。
同時期に江戸から伝えられたのではないようです。
殿様同士の世間話で、入った可能性も・・・・・
歴史はだから面白い!!
夏井先生
貴重なお話しありがとうございました。
疑問を調べる楽しみが出てきます。