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できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

マスメディアから流れる情報への疑いを

2009-01-25 13:22:05 | ニュース

まず、先日の知人たちの公開質問状の件が、毎日新聞の記事として出ました。もしかしたらすぐにリンクがきれるかもしれませんが、一応、紹介しておきます。

http://mainichi.jp/area/osaka/archive/news/2009/01/21/20090121ddlk27040375000c.html(障害者教育:「競争主義に強い懸念」 支援団体、知事に公開質問状 /大阪 毎日新聞 2009年1月21日 地方版)

それにしても、大阪府知事サイドは公人という立場とタレント弁護士出身という立場、この2つの立場をうまくつかって、連日、ニュース番組にバラエティ番組にと、テレビから徹底的に自らの情報を発信しています。もちろん新聞もまた、府庁記者クラブを通じて、府知事からの情報を発信しつづけています。

しかし、府知事サイドからマスメディアを使って流れる情報に対して、例えば今回の知人たちの団体のような立場から批判的な意見を述べるような情報については、なかなか、マスメディアを通じて発信されませんね。今回もおそらく、毎日新聞以外の新聞社やテレビ局などにも、知人たちの団体はいろいろ接触を持っていたはずですし、確か、記者会見もしたと聴いています。にもかかわらず、この状態です。

ですから、大阪府知事サイドから教育改革も含め、府政改革に関してマスメディアを通じて発信されている情報については、「それに対する異論や反論、批判などが、どこかに隠された状態にある」という前提で、常に批判的に読み解いていくくらいでちょうどいいのではないでしょうか。「テレビにでてくるおもろい人」に親しみを抱くのはかまわないのですが、その親しみにまどわされて、あとあと、とんでもないツケを自分たちが払わされないようにするためにも、そういう批判的なまなざしは失わないほうがいいでしょう。

と同時に、大阪のマスメディア関係者に言いたいのは、タレント弁護士時代の彼ならばいざ知らず、今や大阪府政に多大な権限を有する府知事に対して、何らかの形でマスメディアが監視や批判、チェックの目を向けなければ、単なる「広報機関」になりさがってしまうのだ、ということ。もはや彼は、タレント弁護士ではなく、政治家のひとりなのですから。

そして、アメリカの金融不安などに端を発する急激な景気悪化を前にして、今や、あの中央政界ですら、小泉政権やそれ以前からすすめられてきた新自由主義的構造改革路線の是非が問われ始めている状況です。また、定額給付金問題等々でゴタゴタしていますが、何らかの景気対策と社会保障を含む庶民生活へのセーフティーネットの充実をはからなければならないという機運も、中央政界レベルでは少しずつ高まってきているように思われます。そして、雇用不安の解消に向けての取り組みや、日雇い派遣問題に関する規制強化も、セーフティーネットの問題との関係で、議論の対象に挙がりつつあります。

にもかかわらず、こんな情勢のなかで、たとえば青少年社会教育施設に関する補助金予算を削減する等、子どもの教育や福祉といった領域でのセーフティーネットを縮小しようとしているのが、今の大阪府の行財政改革です。これでは、冷たい北風が吹き荒れ、猛吹雪が来ようとしているなかで、家から暖房をとりはずし、薄着にして人々を放り出そうとしているようなものです。そして、学力テストや体力テストなど、そもそも「なんのためにしているのか?」「この数字にどんな意味があるのか?」という次元から考え直す必要があるものの結果を使って、マスメディアを前に府知事は「なんだこのざまは!」と怒鳴りちらす。これだと、行政としてのセーフティーネットづくりの責任、つまり先のたとえを続けるなら、家の暖房などを充実させる責任を棚上げして、まるで「猛吹雪が来ても、お前らさえ体を鍛えていればいいんだ。それで風邪引くのは、お前らの自己責任だ」と言っているようなものです。

こういうことが続いていてもなお、マスメディアがあたかもタレント弁護士時代の彼と同じように、府知事としての彼をもちあげ、何の批判も疑問も提示することなく、ただその主張を流し続けているのが、私にはとても不思議でなりません。

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知人が「公開質問状」を出しました。

2009-01-21 07:22:46 | ニュース

私の知人たちが昨日、下記のような「公開質問状」を大阪府知事・府教委に対して出しました。「公開質問状」ということなので、彼らの出した文書をここに掲載します。(なお、このブログにあうようにレイアウトは一部修正し、連絡先などを書いた「付記」は削除しました。)

一読した私の印象を言いますと、「実に立派な質問状」というか、大阪府知事や府教委が今、進めている教育改革の動きに対して、障害のある子どもたちと日々生活をともにする立場から、何が、どのようにおかしいと考えているのかを、実に要点をおさえて、的確にまとめた文書だと思います。

なお、この「公開質問状」を出すにあたって、下記の構成団体のみなさんは、マスメディアに対して記者会見も行ったと私は聞いています。

そこでマスメディアのみなさんに特に言いたいのですが、今後は、今の大阪府下ですすめられている教育改革について、大阪府教委あるいは府知事サイドから流れてくる情報をそのまま伝えるのではなく、このように「別の視点」もありうることを含めて、新聞・雑誌の記事やテレビのニュース番組などで伝えていただきたい。

そういう手間ひまをかけずに、府教委や府知事サイドから報道発表という形で流れたり、あるいは府知事の「ぶらさがり」取材で得られる情報を流すだけで満足していると、マスメディアは単なる「大阪府庁の広報機関」になりさがってしまいます。

そして、マスメディアが「大阪府庁の広報機関」にならないためにも、たとえ小さい声であっても、今の大阪府の教育改革の動きに対して「何か、おかしいのではないか?」という人々の声に耳を傾けるとともに、「何か、府知事や府教委サイドから出てくる情報には、おかしいところがあるのではないか?」と、マスメディアの側が常に「疑い」の目を持つこと。つまり、批判精神を常に維持するということが大事だと思います。

ついでにいうと、テレビが視聴率向上のために「絵になる」ことばかりおいかけて、連日、府知事が何か言っていることをそのまま流しているようなニュース番組を作ってばかりいると、そこから批判精神が弱ってくるように思います。なにしろ、今までも何度かこのブログで書いてきましたが、私の印象では、マスメディアは今、大阪府の行政改革や教育改革への支持を動員するために、うまく利用されている節が濃厚ですから。

それとともに、おそらく、個々にはいろんな折衝などを行っているのだと思うのですが、例えば教職員組合や公務員労組、民間企業の労組、解放運動など人権にかかわる運動などが、大阪府の行政改革や教育改革の動きに対して、具体的にどんな働きかけをしたり、異議申し立てをしたりしているのか。その動きをもっと社会的に、誰の目にも明らかなように、オープンにしていく必要があるのではないでしょうか。でなければ、マスメディアを自らの施策への支持とりつけのために駆使している側には、なかなか対抗できないように思いますので。せめて、インターネット空間上での取り組みだけでも活発にしないと・・・・。

最後に、今回、質問状を出されたみなさん、これからも粘り強く、日々の活動を続けてください。と同時に、今後も大阪府下の教育改革の動向を見ながら、気づいたことを積極的に情報発信しつづけてください。

<以下、公開質問状の文面>

2009年1月20日
大阪府知事 橋下 徹 様

「共に学び、共に生きる教育」日本一の大阪に! ネットワーク
(構成団体) 知的障害者を普通高校へ北河内連絡会
「障がい」のある子どもの教育を考える北摂連絡会
障害者の自立と完全参加をめざす大阪連絡会議
高校問題を考える大阪連絡会 等 122団体
代表:鈴木 留美子

障害のある子も、ない子も「共に学び、共に生きる教育」をもっと充実発展させるための公開質問状

 橋下知事は就任以来教育に大きな関心を持たれ、発言されてきました。次々に打ち出される施策やプランを読むうちに、私たちは次第に不安を感じるようになりました。成果主義・競争主義に立った教育の中に、障害者もきちんと入っているのだろうか?知事のお考えの中には障害児・者は最初からイメージされていないのではないかという疑問です。このままでは能力主義の教育が推し進められ、大阪の進めてきた「共に学び、共に生きる教育」が否定されていくのではないかと思うのです。実際、府民討論会(2008年10月26日)の場で知事が明確に否定されたにもかかわらず、「全国学力テストから障害児を排除している実態」が私たちの耳に届いています。
これまで多くの府民の要望にこたえ、大阪府と大阪府教育委員会は障害のある子もない子も、地域の公立学校で共に学びあい、育ちあう教育に誠実に取り組まれてきました。私たちは、大阪が全国に先駆けて取り組んできた「共に学び、共に生きる教育」は、これからの社会や時代を創造するための教育の原点であり、かつ目標となるべきものと考えております。障害児が「明日も行きたい!」と思える学校は、だれにとっても学ぶことが楽しく、暮らしやすい学校です。そんな学校こそが「学力日本一」を超えた真の「日本一」、いや「世界一」の魅力ある公立学校ではないでしょうか。
私たちはこの「共に学び、共に生きる教育」をさらに充実発展させていくことこそが、「大阪の教育日本一」を実現する大きな柱になると確信しています。

私たちは以上のように考え、知事の協力も得ながら「共に学び、共に生きる教育」を未来に生かし、伸ばしたいという思いから、以下の通り質問いたします。誠実にお答えいただきたくお願い申し上げます。
なお、回答は文書にて2月20日までにいただけますようお願い申し上げます。

質問事項

1.障害児・者を一般の学校教育や生活の場から切り離して、「分ける」ことをどのようにお考えでしょうか?
●障害者の「完全参加と平等」を唱えた国際障害者年から30年近くたつ現在も、特に「重度」といわれる障害児・者は、生活の場を施設や福祉的就労に限られがちで、社会参加の道を固く閉ざされています。その根底にあるのが、そもそも学校教育の場で、いまだに多くの障害児が、一般の子どもたちから切り離された「支援学校」(養護学校)、「支援学級」(養護学級)で学んでいることです。今後、どんなに重い障害があっても、地域で自立して生きられる社会を実現するには、まず障害児・者を「分ける」発想を変えなければならないと私たちは考えますが、知事の考えをお聞かせください。

2.障害児が地域の学校へ就学することをどのようにお考えでしょうか?
●大阪の教育現場では、重い障害のある子どもも校区の学校で受け入れ、障害のない子どもたちとともに学ぶ環境づくりが積極的に進められてきました。障害児が「支援学校」に就学すると、校区の学校に就学する場合の10倍の費用がかかることをご存知でしょうか。
●「支援学校」を地域のリソースセンターなどに縮小し、すべての子どもを地域の小・中・高等学校で受け入れるほうがより公平であり、対費用効果も優れていると思われませんでしょうか。また、政府が批准に向けて動いている、2006年12月に国連で採択された「障害者権利条約」が言うインクルーシヴ教育(誰も障害を理由として排除されない教育)の趣旨に適うものだと思われませんでしょうか。
●地域の小・中・高校で障害児が学びやすい環境を整えるよりも「支援学校」をより充実発展させる方がよいとお考えなら、その根拠をお示しください。

3.「学力テスト日本一」になるために障害児が排除されている実態を把握されていますか?
●全国学力テストを実施する際、障害児のみに参加の意思を聞いたり、障害児の点数を合計得点からはずしたりするなど、障害児を排除している例が、府内の学校でも見られます。各市町村が学力テストの結果を較べ、点数を競い合うことになれば、ますます障害児の排除が進むことになると思いますが、どのようにお考えでしょうか。

4.能力主義、競争主義、成果主義の教育から、子どもたちが目を輝かせて取り組む学習が生まれるでしょうか?
●習熟度別クラスや、百マス計算などの一斉反復学習、学習塾の講師を入れると言われている「夜スペ大阪版」の「まなび舎」事業では、障害のある子どもたちはどこに行けばよいのでしょうか。例えば3学級を4つの習熟度別クラスに分けた場合、障害児は「最下位」のクラスに入るのでしょうか、支援学級に入るのでしょうか。これでは障害児のみを分離する特殊教育に舞い戻ってしまうのではないでしょうか。
●(障害児だけではなく)子どもたちの間にますます格差が広がり、格差が固定されるのではないでしょうか。
●能力主義や競争主義の教育からは、子どもたちが目を輝かせて取り組む楽しい授業、学びあう授業、お互いにちがいを認め合い支えあう集団づくりは生まれないと私たちは考えます。とりわけ競争や成果主義になじまない障害児は、集団自体から排除される恐れがあります。知事はどのようにお考えでしょうか。

5.子どもたちが地域社会で、たくましく心豊かな人間に育つためには、何が必要でしょうか?
●障害児がともに学ぶ学級では、クラスの雰囲気がやさしくなることを、私たちは過去の経験から実感しています。それは、障害の有無を越えて日常的にふれあう中で、社会には多様な人々がいることや、困ったときにはあたりまえに手を差し伸べる支えあいの関係を自然と学ぶからです。「共に学び、共に生きる教育」を進めることが、点数だけでは計れない真の学びを保障し、子どもたちの豊かな人間性を育むことになると私たちは考えていますが、知事はどうお考えでしょうか?

6.大阪の「共に学び、共に生きる教育」は現状で十分な領域に達しているとお考えでしょうか?
●多くの障害児が地域の学校であたりまえに学んでいることでは、大阪は“日本一”であるといわれています。そのことについて、これまで府と府教委が取り組まれてきた努力に対して、私たちは感謝しております。しかし、まだまだ課題はたくさんあると思います。今後、障害のある子もない子も、すべての子どもたちにとっての「共に学び、共に生きる教育」を充実発展させていくために、不十分な点や課題はどんなことだと思われますか? あわせて今後の方向性も明示ください。 

7.府と府教委が出されている施策やプランには、障害児は含まれていますか?
●真の「教育改革」は、障害児はもちろん、すべての子どもにとっての改革であることが大前提であると、私たちは考えています。もし障害児は別枠とお考えなら、その根拠をお示しください。

(付記は略)

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日本政府の青少年施策の方針を地方自治体が裏切っていく?

2009-01-18 09:30:59 | インポート

去年(2008年)12月に内閣府が出した新しい「青少年育成施策大綱」には、次のような文章がある。日本政府レベルでの青少年施策の「重点課題」として、「困難を抱える青少年」への支援があることを、あらためて強調しておきたい。

③ 困難を抱える青少年の成長を支援するための取組
青少年が様々な困難や不利な状況に直面したり、又はそのおそれがある場合、その個々の困難等の態様に応じ、関係機関が連携し、問題発生の未然防止、早期発見・早期対応及び困難克服までの切れ目ない支援を、青少年本人のみならずその家族に対しても総合的に行う。

また、新しい「青少年育成施策大綱」では、次のような文章で、「青少年教育施設等活動の場の整備」の推進が求められていることも、あらためて強調しておきたい。

③ 豊かな体験・交流のための取組
(体験・交流活動等の場づくり)
青少年が、自然体験や集団宿泊体験等の体験活動を行える青少年教育施設等活動の場の整備を推進するとともに、青少年教育施設と地方公共団体、学校、青少年団体等地域の関係機関の連携により、地域の教育力を向上させる取組を推進する。
また、自然との触れ合い、スポーツ・レクリエーション活動等を行える都市公園の整備や総合型地域スポーツクラブの育成を通じて、総合的なスポーツ活動の機会を充実するとともに、住民のニーズ等に応じた質の高い指導者の養成・確保を促す。
自然公園、河川や海岸などの水辺空間、森林を、環境学習・自然体験等の体験活動の場として利用できるよう保全・整備するとともに、地域ぐるみの活動を推進する。

さらに、具体的に「困難を抱える青少年」への支援の取り組みとして、次のような文章も「青少年育成施策大綱」に盛り込まれている。

(不登校対策)
不登校等への対応の推進を図るため、未然防止、早期発見・早期対応につながる効果的な取組や関係機関等と連携した取組を促進する。
不登校の児童生徒への学校内外における相談体制の整備を進めるなど、不登校の子ども等の教育機会について支援を図る。
また、不登校、ひきこもり、ニートなど自立に支援を要する青少年の社会性等をはぐくむため、自然体験、生活体験、社会体験等の体験活動に継続的に取り組む機会を提供する。

あるいは、小学生期の子どもたちへの取り組みとして、「青少年育成施策大綱」には次のような文章も出てくる。

ⅳ 社会的自立につながる活動機会の保障
(集団遊びの機会の確保)
放課後児童クラブ、児童館、都市公園等の設置を推進し、集団遊びの場を確保するとともに、放課後子ども教室等を通じて、地域住民の参画を得て、学習活動やスポーツ・文化芸術活動、レクリエーション等の機会を提供する取組を推進する。

(地域等での多様な活動)
子どもの心と体の健全な発展を促すため、青少年教育施設や学校、地域の青少年団体、NPO等の様々な場における、環境学習・自然体験、集団宿泊体験、奉仕体験、スポーツ活動、芸術・伝統文化体験、といった様々な体験活動や、異世代間・地域間交流等の多様な活動の機会の提供について推進する。

こういった日本政府レベルでの青少年施策の動向から考えると、どう考えても、その運営形態や維持の方法、事業の内容などには多様な意見があるとしても、児童館・青少年会館・青少年センター・野外活動センターなど、「地域社会における青少年育成の拠点になるべき公共施設」が必要不可欠だという点は、日本政府としても認めているということになる。少なくとも、私はこの「青少年育成施策大綱」からは、そのような理解を得た。

特に、子どもたちの体験活動(自然体験、社会体験、生活体験等)を充実させるような取り組みや、スポーツ・文化活動への参加、世代間交流や地域間交流の可能な施設を中心に、そこが拠点となって、障がいのある子どもや、不登校・ひきこもり経験のある子ども、ニートの状態にある若者等、何らかの「困難を抱える青少年」への支援を実施していく。その方向性が、日本政府レベルでの青少年施策からははっきりと伺えるのである。

このブログを継続してみてくださっている方にとってはあらためていうまでもないことであるが、今まで大阪市内でこのような地域社会における青少年育成の拠点機能を担ってきたのが、2007年3月末で条例廃止を迎えた旧青少年会館である。また、大阪府下の青少年会館・青少年センターや児童館、大阪市内の旧トモノス・児童館などでも、こうした機能は担われてきた。そして、野外活動センター等の青少年の体験学習施設についても、大阪市・大阪府及び府下各自治体が整備し、長年、活用してきた。

ところが、こうした青少年育成の拠点たる公共施設が、地方自治体レベルの財政逼迫の状況下で、利用率の問題や補助金の削減等を理由に、今や、どんどん廃止・統廃合を余儀なくされている。これでは、日本政府レベルでの青少年施策の方向性が大筋ではまだ評価できるものであっても、地方自治体レベルでその方向性に逆行することばかりが行われるようになっていく。

このままでは、「青少年育成施策大綱」は「絵に描いた餅」のような状態になっていくのではないだろうか。また、日本政府が本気でこの「青少年育成施策大綱」にある取り組みを実施しようと思うのであれば、地方自治体に対して、積極的に財政支援を行うべきではないのだろうか。特に、「財源がないから」「補助金がつかないから」という理由だけで、青少年育成の拠点整備から手を引きたがっている地方自治体にたいして、日本政府として本腰を入れて青少年施策をやろうとする気があるなら、財政面からのてこ入れも必要ではないだろうか。

ところで、大阪府の補助事業としての「地域青少年社会教育総合事業」が、今すすめられている橋下知事の行財政改革の下でなくなることによって、今後、府下の各地方自治体で、社会教育・生涯学習分野での青少年施設の統廃合が行われる危険性が高まってきた。まだ詳しい情報が入っていないのでなんともいえない面があるのだが、茨木市あたりでは、すでに市内の4つの青少年センターのうち3つを廃止する方針を行政当局が示している、という。これがどこまで確かなのか、本当に実施されるのかどうかはわからないが、この間の情勢を見ていると「十分、ありうる」と思われる。

しかし、今まで述べてきたことからもわかるように、日本政府レベルでの青少年施策の方向性からすると、今こそ大阪市内や大阪府下で児童館・青少年会館・青少年センター等で取り組まれてきたことに注目し、各地方自治体はその機能の充実等に取り組むべきなのである。

そのことから考えると、やはり、日本政府が本気で「青少年育成施策大綱」の中身の実現に向けて努力するというのなら、地方自治体に対する財政面からのてこ入れ等、さまざまな働きかけをするべきではなかろうか。2兆円の定額給付金で国民ひとりひとりにお金をばら撒くよりも、よっぽど、こうした青少年育成の拠点施設の整備等に国や地方自治体の財源をつぎ込むほうがマシだと思うのは、私だけだろうか。

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「ピンチをチャンスに」と言う前に

2009-01-11 12:21:26 | 学問

このところ、私の身近なところのあちこちで「ピンチはチャンス」とか、「ピンチをチャンスに」いう言葉を聴きます。

しかし、他の人はさておき、同じ研究者仲間がこれをいうのであれば、例えば何を根拠にそういうのか、どうして「ピンチはチャンス」といえるのが、私にはよくわかりません。「そんなことを言う前に、やるべきことがあるだろう」と思ってしまうのです。

例えば、もともとこのブログをはじめたのは、2006年8月末に、大阪市の青少年会館条例廃止・市職員引き上げ方針を出してきた、地対財特法期限後の事業等の調査・監理委員会報告に対する違和感、疑問などの指摘と、抗議の意志表示のためでした。

ある意味、長年、青少年会館の利用者であった子どもや保護者、地元住民や民間団体の人たちにとっては、これは大きなピンチだったはずです。また、そこで仕事を続けてきた市職員にとっても、そこでの取り組みを地元の側から支えてきた運動体にとっても、これは大きなピンチだったはずです。何しろ、今まで30年近く、そこに「ある」ことが前提だった施設がなくなるわけですからね。自分たちの日常生活が大きく動揺すること、それをピンチといわずして、何をいうのか、ということです。

ですから、そのピンチを前に、まずは存続を求めて声をあげたり、抗議集会などを行ったりすることは当然のことです。また、それが実際に廃止されたあと、各地区で今までの子どもや保護者、住民などにニーズを満たすべく、地道にサークル活動などを立ち上げてきた人々や民間団体、運動団体があるわけですし、私も仲間の研究者たちとともに、こうしたサークル活動を支援するべく取り組みを続けてきました。その一環として、このブログでの情報発信もあるわけです。

もちろん、私たちの取り組みがすべてうまくいっているとも思いませんし、実際、例えばボランティアが集まらないとか活動資金が足りない等々、いろんな課題にもぶちあたっている面があります。活動を続けている人たちの間での意見の相違とか、方向性のズレとかもあります。

しかし、まさにピンチというような状況のなかで、各地区で地道に活動を続け、成果を残しつつあるグループもでてきています。また、その成果をふまえて、さらなる取り組みへとつなげていこうとしている人々もいます。その人たちやグループはいずれも、地元の子どもたちや保護者たち、住民たちのニーズをしっかりと見つめ、自分たちに何ができるのかを考え、「できる人が、できることを、できるかたちで」動いてきたように思います。また、「今まで青館で培ってきたことを、ここで捨ててはいけない。消してはいけない」という一念で、粘り強く活動を続けてきた人たちだっているわけです。そして、こうした人たちの粘り強い、地道な営みが、各地区での子ども会活動の再建、識字教室等々の活動の継続などへとつながっていったわけです。

だから、私としては、少なくとも研究者が「ピンチをチャンスに」と本気で思うのであれば、「まずは、地元でこうして粘り強く活動を続けている人を支え、励まし、ともに行動すること」が大前提だろう、といいたくなります。そのためには、「まずは、その人たちの活動している現場に出向き、その人たちの声を聴き、何が自分にできるかを考えること」であり、「この現状のなかで、現場から耳の痛いことを聴くことも含め、痛みをまずはわが身が感じること」。それが出発点にあるのではないか、と思います。

また、その現場で粘り強く動いている人たちにとっては、例えば「これだったら、自分らにも何かできるかもしれない」と思うような手がかりを、まずは研究者たちは示していくことが、最大の支援になるのではないかとも思います。ちなみに、その手がかりは、例えば大阪府下や大阪市内以外のところで取り組まれている事例の紹介であってもいいだろうし、国や大阪府・大阪市などの地方自治体の施策の動向であってもいいだろうし、理論的な研究動向をその人たちにわかりやすく伝える取り組みでもいいように思います。あるいは、今の社会情勢がどうなっていて、そのどこに問題があって、研究者としてはその情勢にどう立ち向かおうとしているのか、どこに課題があって、それをどうクリアしようとしているのかという方針をくり返し伝えることだって大事だと思います。

そして、現場レベルで地道に活動している人たちと、理論的な研究をしている人たちとの交流をもっと深めて、そのなかで芽生えてきた共通理解を手がかりに、さらなる取り組みをすすめていくこと。こうした粘り強い、しつこい営みがあって、はじめてピンチをしのぐこともできるだろうし、そこから新しい運動の方向性を切り開くチャンスだってできてくると思うのです。

私にしてみると、少なくとも私ら研究者が「ピンチをチャンスに」と百回くり返し言う時間があれば、理論や歴史の研究、あるいは行政施策の研究などをやってる人たちは、まずは「現状分析や今の社会構造の分析と、今後取り組むべき課題の析出、その課題を乗り越える方策の検討」をしてほしいです。また、実践研究をやっている人たちは、実際の諸活動の現場に乗り込んで、何をどう具体的に変えればいいかを、現場の人たちとともに悩んでほしいって思います。そして今、十分なことができているとはとても思えませんが、私はそのことに取り組もうとしているわけです。

結局のところ、本気で「ピンチをチャンスに」というのであれば、その「ピンチ」を「チャンス」に転換できるくらいの「底力」を持った人たちの育成や、あるいはその「底力」のある人々のネットワークを形成することからはじめなければいけないというのが、今の私の正直な思いです。そして、そこができていないことこそ本当の「ピンチ」なのではないか、だとしたら、真剣に人材育成や学習活動の段階などからはじめなければいけないのではないか、とすら思ってしまうのです。

「私たちのいま、やろうとしている研究は、だれの、どんな暮らしと、どこで、どのようにつながっているのか?」ということの再確認。少なくとも、研究者が本気で「ピンチをチャンスに」というのであれば、まずはここが出発点だろうと思います。

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そのうちに起こる教員の「派遣切り」

2009-01-11 11:40:39 | ニュース

この数日、大阪府下のいくつかの自治体で、塾から講師派遣を受けて補習授業を行うことをはじめたという記事がでています。

これは例の「夜スペ」を大阪府下でもやろうとしていることの現われだという風にも理解できますが、私はもうひとつ、「別の見方も可能かな?」ということを考えています。

それは「コストパフォーマンス面で、安上がりな義務教育の実施」という方向性を、どの部分から大阪府下の学校に導入していくか、ということの現われ、ということです。

でも、今はマスメディアも「安上がりな義務教育の実施」が、どんなデメリットを生み出すのかについては、ぜんぜん注目していません。「これじゃダメだろう」ということで、あえて今日は、以下のことを書き記しておきます。

さて、先日、ある大阪府下の公立小学校教員の方と、じっくりと話をする機会がありました。その方によりますと、最近、学校で例えば病気その他の事情で年度途中に教員が休職に入られても、その代替の方が見つからない傾向にあるとのこと。このために、例えば、さまざまな目的で「加配」という形で配置した教員が担任にまわらざるをえなくなった学校があるとか、年度途中の教員交代が続いて校内運営等にも支障が出てきたり、「もう、だれも倒れられない」というような状況になりつつある学校も出てきた、ということでした。

もしもこの小学校教員の方がおっしゃる話が本当だとすると、今の大阪府下では、義務教育段階の学校現場において、教員の数は「ぜんぜん、たりていない」ということなのです。とすれば、まずもって義務教育段階で本気で「学力向上」とかいうのであれば、大阪府教委としては、この足りない分の教員をきちんと満たしていくこと。また、大阪府知事としては、教員確保に向けての腑教委の取り組みを、全力をもってバックアップしていくこと。このことを、大阪府の教育改革において、最優先にすべきなのです。

ところが、このところ相次いで報道されているのは、塾講師派遣による公立学校での補習授業。もちろん、今ここで、塾と学校との連携がすべてダメだとは、あえて言いません。その補習授業で行われている学習の内容や、そこでの子どもや保護者たちの満足度等々のこともありますので。

ですが、学校における平素の教育活動が、例えば教員数の不足や校内運営の問題等で支障を来たしているのに、そちらにはたいした手当てをせず、それどころか、「成果をあげないと予算を減らすぞ」等々の脅しをかけ、府下市町村教委や府下公立各学校に圧力をかける。その一方で行われているのが、補習授業からはじまった塾と学校との連携です。

こういうことを見ていくと、何か、府知事サイドから出てくる話や、それにのっかかって各市町村レベルですすめられている教育改革は、どこか方向性が本末転倒していると思うのは、私だけでしょうか。「塾との連携をはかる前に、まずは学校できちんとした授業が受けられたり、教員で放課後の補習等ができるように、条件整備をきちんとするべきではないのか?」と思うわけです。一方で学校の条件整備を後回しにしておいて、手っ取り早く、塾との連携で効果を挙げようとする。どこか、本末転倒のように思ってしまうのです。

また、この本末転倒をあえてすすめようとするところから思ったのが、今は「コストパフォーマンス的に安上がりで、効率よく成果があがるなら、それでよい」というのが、今の大阪府下の教育改革の基本方針なのか、ということです。

例えば、塾からの講師派遣を受けて公立学校が補習授業を行うことは、いわば自分らが本来なすべき教育活動の「外注」、「アウトソーシング」というものですからね。だから、新たに公立学校で「学力向上」策実施に向けて教員を雇用するよりも、そのほうが「安上がりだ」という財政的な面からの判断が、どこかにあるのではないかと思ってしまいます。

ちなみに私の予想では、府教委は「こんなこと、やりたくはない」と思っているのだけど、しかし府庁内の財政当局だとか、知事のブレーン筋とか、そのあたりがマスメディアなども使って強い圧力をかけながらすすめているので、逆らえず進んでいるのではないか、と見ています。

でも確かに、放課後の補習授業を含め、これまで学校の教員が行ってきた仕事の一部を、次々にこうやって「外注」、「アウトソーシング」していけば、学校に関連する経費は削減されるかもしれません。なおかつ、それで「学力向上」という目的が「安上がり」にできるのであれば、コストパフォーマンス的には有効だという判断になるのでしょう。

ただ、今の方向性をどんどんおしすすめていけば、そのうちに、教育行政当局は一定の財源と法的権限だけ持っていて、自らの政策目的に沿った教育活動を行ってくれる諸団体に「入札」か何かを行わせて、安くその団体から教育活動を買うような形で施策を実施するという、そんなことへとつながっていくのではないでしょうか。それは補習授業や放課後のクラブ活動からはじまって、そのうちに学校の正規の教育活動にまで展開されるかもしれません。

そして、その諸団体では、人件費コスト削減が「入札」につながるということで、例えばパートタイマーや有期契約等の形で、教育活動に従事する職員を集めるなんてことになるでしょう。

あるいは、どこかの会社が教員の人材派遣業をはじめ、各公立学校や地方自治体教委と契約して、必要なときに必要なだけ、その派遣業者から教員を送り込んでもらう。不要になれば、契約期間終了ということで、非正規雇用の教員を切っていく。いわば、学校教員の「派遣切り」というものも行われるようになるでしょう。

その結果はどうなるか? 例えば、公立学校での不安定な雇用形態を敬遠するため、諸団体での教育活動に従事する職員の意欲や仕事の質が著しく低下したり、頻繁な職員の入れ替わりによって、長期間地道に努力をして向上するような性質の教育活動が行われなくなったりなど、かえって学校教育の成果をさげていくような方向性は生まれてこないのでしょうか?

あるいは3年や5年という比較的短期間での委託を繰り返すことにより、10年や20年といった将来展望に立って学校が何かに取り組んだり、現場レベルで柱になるような教育関係者の人材育成ができなくなったり、さらには、地方自治体レベルでの教育施策そのものも「場当たり」的なものばかりになって、だんだんレベルが低下するということになりはしないのでしょうか。 そして、人権教育や解放教育の営みだって、あるいは「障がい」のある子どもの普通学校・学級での受入だって、「コストパフォーマンスにあわない」とか「担い手がいない」とかいって、このままでいけばまずは縮小、そこから継続打ち切り・廃止ということになっていくことが危惧されます。

それこそ、「地域からの学校改革」とか、「学校・家庭・地域の連携」とかいって進めてきたこの間の府教委の学校改革は、その主たる担い手である学校の教員たちがそのうち、「派遣」や「非正規雇用」の人たちばかりになっていけば、継続できるのでしょうかね?

まぁ、今すすめられている学校ソーシャルワーク(SSW)関連の事業のように、学校・家庭・地域の連携という営みの担い手すら、有期雇用を前提として外部に人材を求めるというような、そんなことになっていくのかもしれませんが。(だから、SSWの関係者にあえていいたい。本当に子どもの人権保障の観点にたって学校・家庭・地域の連携をすすめたり、生活困難な層の子どもたちの支援をやろうと思うのなら、きちんとした制度的基盤の整備に向けて、行政・議会・マスコミ等々にむかって、「最低限のやるべきことはやれ!」と、怒りとともにものを言わねばならないのだ、と。)

もちろん、安上がりな義務教育をめざして今、行われているような取り組みは、一時的には効果をあげるかもしれません。特に、学校教育にかかる経費削減には、一時的にはつながるかもしれません。しかし、長い目で見たときには、こうした施策は学校教育のレベルを大幅に低下させる危惧があります。

そのことに対して、研究者や現場教員、市民団体のメンバー等々といった立場のちがいにかかわらず、大阪の人権教育関係者が今、どれだけ「おかしい」といえるのか。私も含め、今後そこが問われていることを自覚して、日々、いろんなことに取り組んでいきたいと思います。

なお、すでに大学・短大などの高等教育の分野では、大量の非常勤講師や有期契約の講師採用が行われています。また、大学等の教職員の非正規雇用のあり方をめぐって、雇用者側と労働者側の紛争が各地で起きていること(しかも、それが大手有名私立大学で起きていたりする)、非正規雇用の教職員の諸権利を守るための運動もはじまっていることも、あえて記しておきます。

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年の初めに

2009-01-04 19:46:03 | ニュース

年の初めに、ひとこと、このブログを通して、どうしても言っておきたいことがある。

現行の小学校学習指導要領には、5・6年生で学ぶべき内容として、次のような項目がある。今の子どもたちには、小学校でこうしたことを、「道徳」教育のなかで学ぶことが求められている。

「生命がかけがえのないものであることを知り、自他の生命を尊重する。」

「公徳心をもって法やきまりを守り、自他の権利を大切にし進んで義務を果たす。」

だが、私はそっくりそのまま、日本政府の閣僚・官僚や国会議員、地方自治体の首長や行政職員、地方議会の議員、そして、そのブレーンとして活動している研究者その他「学識経験者」と呼ばれる人たち、日本経済を引っ張るような大きな企業の経営者などに、つきかえしておきたいと思う。

例えば、この年末年始、テレビのニュースなどで「派遣村」の話がくり返し、報じられていたかと思う。あわてて厚生労働省が庁舎内の講堂か何かを解放して、「派遣村」の人々の寝る場所を確保したとか、そんなニュースも聞く。

冷え込むおおみそかや正月の空の下、非正規雇用の契約期間の打ち切り等、さまざまな事情により住む場所や生計を立てる道を失い、まさに「路頭に迷う」状態に陥った人々の姿を「派遣村」関連のニュースで見て、本当に心の痛む思いである。

また、急激な経済情勢の悪化によって生活困難な状態に陥る人々の数は増えているだろうし、その傾向は特に、いわゆる「マイノリティ」において強まっているのではないかと危惧している。

こういう社会的状況や、生活困難な状態に陥った人々への対応を政府や地方自治体が後回しにしておいて、他方で「生命がかけがえのないもの」とか、「自他の生命を尊重する」とか教育行政当局が訴えたところで、はたして、だれがその人たちの言うことを信用するのだろうか。

「子どもたちに道徳教育で、こんなことを語る前に、まずは政府や地方自治体、教育行政当局が、目の前にいる生活困難な状態にある人々に対して、現在、とりうる限りの術を使って、生活支援に乗り出せ」と言いたい。

それこそがまさに「生命がかけがえのないもの」であること、「自他の生命を尊重する」こと、そして、行政当局として「法やきまりを守り、自他の権利を大切にし、進んで義務を果たす」ということではないのか。

それから、「コスト・パフォーマンス」という観点から、企業が景気情勢にあわせて都合よく人を雇い、都合よく人を切るという、そういうしくみを導入することを積極的に行ってきた人々。

また、そのしくみを導入すれば地方自治体の財政状況が回復するといって、自治体行政にも非正規雇用を増やそうとしている人々。

そして、高齢者や障がいのある人々などへの国や地方自治体の支援施策を「コストがかかってしょうがない」といって、財政再建のためならやむなしといってばっさり打ち切るような、そんな施策導入を積極的に主張してきた人々。

こういった人々にも、「生命がかけがえのないものであることを知り、自他の生命を尊重する」ということや、「公徳心を持って」や「自他の権利を大切にし」という部分をどう考えるのか。そこを問いたいと思う。

例えば、体や心に何か悩みのある人たち、年老いた人たち、働きたいけど働けない事情にある人たち、言葉や生活習慣のちがいなど、日本社会になじめない何か事情のある人たち・・・・、などなど。

こういう人たちへの国や地方自治体の支援施策を、例えば「費用対効果」という次元だけで考えて、今後の方針を決めていいのか。

それは結局、「支援施策の充実ばかりを求めるような、手間とコストのかかる人たちは、国や地方自治体の施策のじゃまにならないように生きろ」と言っているのに等しいのではないのか。そういう見方は、「生命がかけがえのないものであることを知り、自他の生命を尊重する」や「自他の権利を尊重する」という観点から見て、どうなのか。

あるいは、この社会の多くの人々が雇用によって賃金を得て、それによって生計を立てている。その社会において、例えば3ヶ月や6ヶ月、1年といった形で企業側が期間を区切って人を雇い、期間が終了すれば雇用を打ち切りにできるシステムというのは、たしかに現行の労働法上、許されるのかもしれない。実際、さまざまな政治的な動きのなかで、そのほうに法を変え、今の経済が回っているという部分もあるのだろう。

しかし、その有期雇用を前提とするシステムのなかで、雇用の継続次第で生活を脅かされる人たちがいる。こういう人たちを生み出してしまうシステムというのは、合法的であってもやはり、「生命がかけがえのないものであることを知り、自他の生命を尊重する」という観点から見れば、道義的には問題がいろいろあるのではないか。それこそ、「公徳心」や「自他の権利を尊重する」という観点から見たら、このシステムはほんとうにいいものなのかどうか。

要するに、小学生たちに語る「道徳」の中身と同じもので、政府や地方自治体の行政当局や国会・議会、経済運営の中枢にいるおとなたちが、わが身を一度、点検してみよ、といいたいのである。

また、今まですすめられてきた数々の行政改革経済政策の内実を、今、あらためてきちんと、例えば「自他の生命・権利の尊重」というような観点から批判的に問い直し、その行き過ぎにブレーキをかけ、異なるものへと置き換えるべき時期がきているように思う。つまり、「オルタナティブな道を探る」という作業が必要なのである。

そして、自戒をこめて言うが、今まですすめられてきた数々の行政改革や経済政策の内実を問い直す作業や、別の観点からその行き過ぎにブレーキをかけ、オルタナティブな道をつくる作業のためには、今まで私たちが行ってきた学術的な研究や実践的な活動(社会運動)の内実の問い直しも必要不可欠であろう。もちろん、そのなかには人権教育や子どもの人権に関する研究や実践的活動、さまざまな社会運動も含まれるし、これらのとりくみは例外ではない。

なぜなら、先に「今まですすめられてきた」と書いたように、この悲惨な事態に至る流れを食い止めたり、別の方向へと転換する力をもてなかったわけだから。やはり、自分たちのダメな部分、判断や理解を誤った部分などを見つけ出し、そこを是正していく作業とともに、前述のようなオルタナティブな道を探る作業を行わなければいけない。そのことを、あらためて自戒とともに述べておきたい。

年の初めに語っておきたかったことは、以上である。

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