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できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

粘り強い活動を展開中&解放子ども会の「原点」をおさえなおす

2010-10-31 15:45:25 | いま・むかし

昨日10月30日(土)のお昼過ぎに、大阪市内で、旧青少年会館廃止後も地元のNPOを中心に、粘り強く子ども会活動を続けている地区の様子を見てきました。

おじゃましたときは、ちょうど子どもたちのお昼ごはんの時間。親子どんぶりときつねうどんがメニューだったのですが、さすがに小学生約40人分+スタッフの分をまとめてつくるのは、けっこうたいへんそう。早く食べれた子と後になった子が出たようですが・・・・。こういうときには、カレーやシチュー、豚汁や焼きそばなど、他のメニューのほうがよかったかも? 子どもの数が多いときのお昼ごはんのメニューには、今後、工夫の余地がありそうですね(苦笑)。

ですが、団地の集会所を借りて、たとえば毎週2回くらい放課後の小学生を集めて宿題の面倒を見る機会をつくるとか、地元の中学生や高校生が中心になったの音楽(バンド)活動、和太鼓の演奏、そして土曜日の子どもたちの遊び等々、ここでは地元のNPOが積極的に子どもや若者の育成活動を展開しています。ですから、もっていきかた次第では、たとえば平日午後と土曜に小学生たちの「学童保育+補習の場」、平日夜などには「若者たちの文化活動サークル+補習の場」などが、このNPOから立ち上がってくるようにも思います。

それこそ、いま「子どもの貧困」問題について研究・実践活動をしている人たちの間では、たとえば児童館での炊き出し、NPOなどによる小中学生対象の無料の学習会などを通じて、学校外で貧困世帯の子どもを支援していく活動に注目が集まっています(この点については、『子どもの貧困白書』(明石書店)などを参照)。だとするならば、大阪市内のこの地区の取り組みだって「負けてないぞ!」といいたくなりますね。

もちろん、ここは常時、活動できる場所の確保がうまくいったようですが、それでも、たとえば子どもや若者とかかわってくれるスタッフの不足(この日の昼ごはん準備が大変だったのにも、これが大きく関わっている)とか、運営資金の不足とか、活動メニューの工夫とか、いろんな課題が多々あると思います。

ですが、地道に何年も活動を続けていく中で、たとえば小学校高学年くらいの初期の参加者が中学生、高校生になり、NPOのおとなのスタッフを手伝ってくれることも出てくるでしょう。あるいは、お昼ごはんの食材を提供してくれるお年寄りとか、「料理くらいなら手伝ってもいいよ」というおとなも、今後は出てくるかもしれません。そして、近隣の大学のボランティアサークルなどに呼びかけてみるなどの工夫をすれば、スタッフとして協力してくれる人は増えるかもしれませんね。

私としても、この地区のNPOの活動が今後、どのように発展していくのか。そこを注意深く見守っていきたいと思いますし、また、私や学生・院生たちで何か協力できることがあれば、手伝っていきたいな、とも思います。

それから、粘り強く活動中の他地区についても、今後、私のところにさまざまな情報を寄せていただければと思っています。もちろん、他地区についても活動の様子を見せていただきたいですし、必要なお手伝いができればいいな、と思います。

そして、これは「全国的に」という書き方になりますが、被差別や貧困世帯の多い地区などで、子どもや若者を対象に、学校外で積極的に取り組まれている子ども会活動、学習会活動や文化・スポーツ活動などの情報を、私のところに寄せていただければ幸いです。どうぞよろしくお願いします。面白い活動をしているところがあれば、ぜひ大阪を含む関西圏以外のところも見てみたいですね。

ちなみに、実は昨日の午前中、(社)子ども情報研究センターの子育ち連携部会の場で、かつて解放子ども会の指導者として、被差別の子どもや若者たちと向き合ってきた方の話をお聴きしました。この方の語るかつての解放子ども会の実践の話を聴くと、このNPOの活動は、青少年会館設置以前の解放子ども会活動の「原点」に回帰した取り組みのようにも感じました。

それこそ、かつてムラのお寺の使ってない部屋などを借りて、地元の若者がムラの子どもたちを集め、宿題の面倒を見る。また、モノもお金もないなかで、使えそうなモノをあちこちから集めてきて、自分たちでおもちゃを作ったり、道具を作って遊ぶ。あるいは、集団での遊びを通じて子どもたちどうしのつながりを作りながら、そのなかでひとりひとりの子どもの思いを聴き、自分たちの置かれている生活環境の諸課題を見つめさせていく。そして、ひとたび学校で何か差別事件などが起きれば、地元の若者が子どもたちとともに抗議の声をあげていく・・・・。このようなかつての「解放子ども会」の活動のなかには、今、あらためて人権教育や子どもの人権に関わる諸活動などが参考にすべきことが、多々詰まっているように思います。

今、私たちはあらためて、解放子ども会の「原点」をおさえなおす作業を通じて、そこから今、NPOなどを母体にしながら、地元の子どもの学校外活動を展開するヒントを得ていく必要があるのではないでしょうか。そのことを昨日は感じました。

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「人権教育」が今、向き合わなければならないこと(5)

2010-10-23 20:42:12 | ニュース

久しぶりの更新になります。2週間とちょっと、間があいたでしょうか。引き続き、最近の教育の動きを見ていて感じたことを、「人権教育」が向き合っていくべき課題として、ここでまとめておきます。今日は大きく2点、あります。

(1)「人権教育」推進のための条件整備をどう考えるのか?

今日の朝日新聞ネット配信記事によりますと、各地の公立小中学校で「常勤講師」「非常勤講師」などの正規採用ではない教員が、とうとう「教員7人に1人」の割合にまで至ったとか。また、この記事によると、そのような状況に至った背景には、最近の自治体の財政難と義務教育費国庫負担法の改正(というか「改悪」だが)があるとか。

こうした教員配置・採用のような学校教育の条件整備の問題について、「人権教育」の推進を考える研究者や現場実践者は、どのように考えているのでしょうか?

いくら「人権教育」について、優れた教育内容や教育方法を研究したとしても、それを担う教員が安定した形で勤務できなければ、現場にそれが根付くことはないと思うのですが。それこそ、1年契約更新の「常勤講師」の立場で、「いつ、解雇されるかわからない」人が、各校で「人権教育」関連の取り組みを担っている・・・・。大阪市内や大阪府内の各学校では、そんな現実はまだ到来していないのかもしれませんが、しかし、いつそういう状態がやってくるかわかりません。

あるいは「学力向上」を本気で考えるのであれば、教師たちが数年間、どっしりとひとつの学校に腰を落ち着けて、子どもたちと向かい合える環境の整備が必要なはずです。そうでなければ、長期間にわたって継続することが必要な「学力向上」策の実施が難しくなるはずです。とすれば、このように学校に「非正規雇用の教員」をたくさん導入する政策は、一方で「学力向上」を目指す政策の効果を減少させていくのではないでしょうか。「少ない人件費で大きな効果を」と、コスト・パフォーマンスにこだわった教育政策なのかもしれませんが、学校の抱えている現実は、そんなに「甘くはない」のではありませんか。

ただ、いずれにせよ、このように学校教育の「条件整備」の問題に、「人権教育」に関する研究者・現場実践者がどういう見解を持っているのか。そこが私には気がかりです。本気で「人権教育」のいい実践を長期間行なうためには、教員の採用や配置などを含めて、それ相応の条件整備が必要ではないんですかね? なぜそこにはモノを言わないのでしょうか?

同様のことは、大学教育にもいえます。本当に「人権教育」の研究を推進していくことが必要であれば、それを研究している人が非常勤講師のかけもちで食いつないでいるとか、任期つき採用の状態で活動しているということを、何らかの形で改善していく必要があると思うのですが、いかがでしょうか?

(2)どう思いますか、この橋下知事の発言?

もうひとつ書いておきたいのは、広島県知事が時間休の形で「育児休暇」をとるとの報道に対して、橋下大阪府知事が「世間知らずだ」といったこと。これに対して広島県知事は、「大きなお世話だ」と反論しているわけですが

まぁ、この件に関する朝日新聞のネット配信記事を見る限り、橋下知事も一応「世間が育休を取りやすくする環境を」つくるとか、そのために「予算措置でもなんでもできる」とか言ってます。だから、そういった育休を世間の男性がとりやすくなる措置をしたあとで、「首長の育休」が来るべきだ、という趣旨での発言のようです。

しかし、ここでふと思うのですが、大阪府内では何か、「世間の男性」が「育児休暇」をとりやすくなるための政策を実施しているんでしょうか?

なにしろ「育児・介護休業法」の第4条では、「事業主並びに国及び地方公共団体は、前条に定める基本的理念に従って、子の養育又は家族の介護を行う労働者等の福祉を増進するように努めなければならない」と書いています。

あるいは、「少子化社会対策基本法」の第10条でも、国及び地方公共団体には、「子どもを生み、育てる者が充実した職業生活を営みつつ豊かな家庭生活を享受する」ことができるように、「育児休業制度等」の施策の充実を講じることが求められています。

つまり、地方公共団体の首長として、広島県知事の動き方をどうこういうよりも前に、そもそも大阪府知事はどんな形で、男性も女性も「育児休暇」の取りやすい環境整備を行っているのか。法的に見れば、そこが問われるわけですね。

さて、橋下知事が就任して以来のこの間、大阪府内の子育て中の女性・男性は、どのくらい「育児休暇」が取りやすくなったのでしょうか。「イクメン」を目指す他県の知事をとやかくいうまえに、「もうちょっと、足元を見たほうがいいのではないか?」と私などは思うのですが、いかがでしょうか?

そして、ほんとうはいま、私がここで書いたことを、真っ先に、ジェンダーの問題や子育ての問題に関心のある「人権教育」系の研究者、現場実践者が、大阪の地元から言わなければいけないと思うのですが・・・・。あなたたちは今、どこにいるんですか?

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「人権教育」が今、向き合わなければならないこと(4)

2010-10-07 20:09:51 | いま・むかし

もうひとつの日記帳ブログのほうにも書きましたが、今月に入って、日本教育行政学会の大会が筑波大学でありました。10月2日・3日にあったのですが、そこに自分たちの共同研究の発表があるので、私も久しぶりに学会に出てきました。それで、この3年くらい、教育行政学会では「こども・若者の貧困」をテーマにした「課題研究」が行われていたので、その報告の場に私も出ることにしました。

今回、日本教育行政学会での「こども・若者の貧困」に関する「課題研究」報告を聴いていて率直に感じたのは、やはり、私のこの問題に対するとらえ方と、教育行政学サイドからの問題のとらえ方とが「つながっている」という実感でした。

すなわち、「こども・若者の貧困」状況の広がりを前にして、この日本社会において、もう一度「教育を受ける権利」保障の内実を問い直すそうとしているということ。また、そのときに、子ども・若者の権利保障の充実という視点に立って、就学援助や生活保護の在り方など教育・福祉に関する施策の関係や、教育・福祉に加えて就労の問題まで視野にいれた形で、子ども・若者支援の施策の総合化について検討する必要があること。そういう視点からの議論が、教育行政学サイドからの「こども・若者の貧困」に関する報告には多々、あるんですよね。

少なくとも私にとっては、大阪あたりで「貧困と学力」について論じている人権教育関係の議論からは、こういった視点はあまり感じられない。たとえば、貧困世帯の子どもの家庭学習の習慣を問題にして、学校と家庭の連携でできる努力を求めていこうとかいう話はあっても、子どもの学校生活に関する貧困世帯の経済的負担を軽減する方策を検討しようという話には、なかなかならない。あるいは、保護者の生活保護や就労支援といった方策から、家庭の経済的な状態自体を改善する方策を考えようという話には、どうしても向かっていかない。

私としては、「貧困と学力」という枠組みから、根本的な「こども・若者の貧困」の部分をどうするか、そこにどういう支援施策や制度改革の提案を打つのかという議論を抜きにして、「学力向上」に向けて、たとえば「学校現場の努力」「家庭や子ども本人の努力」でできることばかりを論じることには、前々から違和感を抱いてきました。そういう議論の枠組みだと、今、大阪府内や大阪市内で進められている教育改革を批判的に検証する視点は、まったく出てこない。というよりも、「今ある改革の枠内でいかに有利な地位をしめるか?」という話にしかならないように思うんですよね。

あるいは、今回の「課題研究」の報告者や司会者に、私は「社会教育施設での居場所づくりを通じて、貧困世帯の子どもたちをサポートしていくことについてどう思うか?」とか、「学校外の文化的・芸術的な生活面での子どもたちの格差の問題にどう取り組むべきか?」という質問をしました。この質問に対して、報告者や司会者の人たちからは、「そうだそうだ、そういう課題もある」という好意的な受け止め方をしていただきました。

たとえばある報告者の人は、ユースワーカーが貧困世帯の子ども支援にはたす役割だとか、社会教育の実践を通じての支援の重要性について、質問への返答のなかで語ってくださりました。あるいは、別の報告者の人は、学校で身につける「学力」それ自体の問い直しが、貧困世帯の子どもへの支援においては必要ではないかとの返答。つまり、学習指導要領に枠づけられ、家庭の経済力でその獲得状況が左右されるような「学力」の枠内での競争のなかで、はたして根本的な子どものエンパワメントが可能なのか、という話をされました。

こういう視点からの話も、私としてはおおいに納得できるような話ですし、また実際、いままで大阪市のもと青少年会館などで、元職員の方や地元のNPOの方たちがやっている取り組みというのは、ここでいうユースワーカーの人たちの仕事にかなり近いわけです。ところが、私の知る限り、これまでの「貧困と学力」の枠組みからの話からは、こんな視点からの話が出せるのはほんの一部の人で、全体的に見ればあまり聞いたことがない。

このあたりは、教育社会学系の「学力」研究と、教育行政学系の「教育権保障」研究の視点の違いかもしれないのですが、でも、この違いって大きいように思います。なぜなら、現場教員たちによる教育運動、あるいは地域住民や保護者、NPOなどによる教育運動が、具体的に子どもの貧困のどんな課題の解決に、どのような発想・手法で取り組むのかという面で、ずいぶん取り組みの方向性が変わってくるからです。

そういうわけで、私はあらためて日本教育行政学会に出席して、「こども・若者の貧困」の「課題研究」に関する報告を聴き、「自分の視点は教育行政学寄りだ」ということを再確認した次第です。

あと、これは少し余談ですが。大阪市内で青少年会館条例が廃止になったあと、その条例運営や各館運営にかかわる文書は、どのように整理・保存されているのでしょうか? あるいは、大阪市内の人権文化センターが市民交流センターとして再スタートを切るにあたって、過去の文書類はどのように整理・保存されているのでしょうか?

今後、戦後日本の解放運動や同和教育・解放教育、あるいは同和対策事業の歴史的な検証作業が本格的に必要となってきたときに、このような文書類をきちんと整理・保存する作業ができていなければ、あらためて評価すべき取り組みを評価することすら、「資料がない」ということでできなくなってしまうでしょう。そのことについて、行政側・運動側・研究者側がそれぞれ、どのように考えているのか。私としては最近、そこも気がかりになっています。一応、この場をお借りして、指摘させていただきます。

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「人権教育」が今、向き合わなければならないこと(3)

2010-10-01 23:04:18 | いま・むかし

このところブログを書くことのできるような時間がなかなか取れない反面、電車の中などで、ツイッターで何かつぶやいていることが多くなりました。たった140字しか書けないという制約はあるものの、うまく活用すればいろんな人たちと意見交換をすることもできますので、ツイッターにはブログにはないよさも感じています。今日、ここで書くことも、そのツイッターでつぶやいているなかで気づいたことです。

さて、このところ大学で授業をしていて気づいたのですが、<あくまでも私の授業科目を受講している学生たちに限定して>という言い方をしますが、たとえば子どもの権利条約その他の国際的な人権条約の内容だとか、日本国憲法に定める基本的人権に関する内容などについて、あまり学生たちは詳しいことを知りません。「そういうことが書いてあるなぁ」ということくらいは知っていても、「それが自分たちの暮らしとどうつながるのか?」ということまで、イメージを膨らませることが難しいようです。

あるいは、高校の「現代社会」の教科書などを見れば、たとえば年金制度や生活保護、健康保険などのいわゆる「社会保障」について、一定の記述はあります。ですが、まるで「教科書の太字部分をひとまず言葉だけ聴いて、テスト前に覚えておく」だけで済むような学習のなかで、「社会保障」と日本国憲法に定める生存権(健康で文化的な最低限度の生活を営む権利)との関係など、「詳しいことはよくわからない」まま、過ぎ去っているような感があります。

「これではたして、いいんだろうか?」というようなことをツイッターでつぶやいていたら、何人か私のつぶやきを見てくださった人権教育、あるいは人権問題に関する研究者の方から「そう思う」「同感だ」というような返信のつぶやきをいただきました。ここでお礼をいうのもちょっと変かなとも思うのですが、ひとこと感謝の気持ちを表しておきたいと思います。

ただ、よくよく考えてみますと、「これって日本の社会科教育(高校だと公民科教育)が問われているのではないか?」とも思うのです。なにしろ、中学校学習指導要領上、社会科・公民的分野の目標は、「個人の尊厳と人権の尊重の意義、特に自由・権利と責任・義務の関係を広い視野から正しく認識させ、民主主義に関する理解を深めるとともに、国民主権を担う公民として必要な基礎的教養を培う」からはじまります。これは現行の1998年版の学習指導要領でも、今の移行措置を経て本格実施予定の2008年版のそれでも、同じ目標です。そして、この学習指導要領の目標からすれば、「道徳」の領域での「人権」についての学習以上に、中学生の憲法や人権についての学習は、社会科(公民科)でもっと積極的に扱われるべきだという意見も成り立つでしょう。

なにしろ、中学校「社会科」という教科の「公民的分野」の主たる目標に「人権の尊重の意義」という言葉が入っているわけですからね。また、中学校の学習指導要領上、「道徳」の領域では、多種多様な内容の「ひとつ」として「自他の権利を重んじ・・・・」という言葉が出てくるだけです。そして、その「道徳」の領域での「自他の権利を重んじ・・・・」という言葉も、その前に「法やきまりの意義を理解し、遵守する」という言葉と、あとに「義務を確実に果たして、社会の秩序と規律を高めるように努める」という言葉につながるわけです。このような「道徳」の教育を軸とした「人権教育」で、はたして「私たちが暮らしやすい社会をつくるために、国のあり方を問い直し、よりよいものへと変革していこう」とするような、能動的な「市民(公民)」のイメージが出てくるのかどうか、というところです。

だから私は、今、一部の人権教育の関係者が「道徳」の領域で「人権」についての学習を進めようとする動きについては、やや首をかしげざるを得ないと思っています。特にその人権教育の関係者が、上に書いたような能動的な「市民(公民)」の育成ということを人権教育の重要な目標と考えるのであれば、まず真っ先に、学習指導要領の「道徳」の内容を問う必要があるのではないか、と思うわけです。

ついでにいうならば、人権教育が追求すべき「学力」の中身も、本来は、この能動的な「市民(公民)」の形成や、国際的な人権条約及び日本国憲法の基本的人権に関する内容の理解に関わる読み・書き・算のスキル形成、さらには思考力や判断力・表現力などの形成といった観点から論じるべきでしょうね。私としては、全国学力テストやこれに類するテストの点数が高かった・低かったで一喜一憂するような「学力」論は、本来、人権教育の充実に必要な議論ではないと思っています。

なお、もう一つの日記帳ブログにも書きましたが、近々、故・岡村達雄さんの研究業績を紹介したり、故人を偲ぶ内容で綴る新ブログをつくろうと思っています。ご存知の方も多いかと思いますが、岡村さんは『日本近代公教育の支配装置』(社会評論社)など、日本の近現代公教育のあり方を問う数々の著作のある方で、私の大学院生時代の指導教授でもあります。また詳しいことが決まり次第、こちらのブログ及び日記帳ブログでお知らせします。

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