※以下の内容は、今日、神戸で行われた全国学校事故事件を語る会のシンポジウムで私が話した内容をまとめたメモ。なお、会場で配布したものから誤字等を修正している。
遺族への学校・教育行政の「応答する責任」とは?
―「第三者委員会のあり方」を考えるために―
※下記の文中で「遺族」と書いている部分は、学校で我が子を亡くした遺族だけでなく、重い心身の傷を負った子どもの家族にも当てはまることである。また、「第三者委員会」と書いた部分も、「学校・教育行政」「裁判所」に置き換えても成り立つ余地がある。
1:大庭健『「責任」ってなに?』(講談社現代新書、2005年)から
下記のように、哲学・倫理学の本で「責任」を論じたものの内容が、意外と学校事故・事件の問題にも通じると考える今日この頃。
○責任がある・責任を担う、ということは、「なぜ、どういう理由(わけ)で、そうするの?」という問の前に立たされることを含意する。(p.30)
○なにも自分を危うくしてまで外部の声に応える必要はない・・・。それは、そうかもしれない。しかし、そのようにして身を保っているあいだに集団が外部に危害を加え、外部から問われたときに、「自分はマニュアルどおりに業務をこなしただけ」と応じるのは、やはり無責任である。いわんや「自分の立場では、他のようにはできなかった」と答えるのは、責任を担う主体であることを放棄するにひとしい。
メンバーの多くが、このように外部からの問いかけに耳をふさぐようになっているときには、逆にまた、集団内部のコミュニケーションも、一層その動脈硬化が進行し、抑圧的なものとなる。こうして集団全体は、外部にたいして加速度的に無責任になる。(p.175)
2:遺族の側からの呼びかけに、学校・教育行政や第三者委員会はどう応答するのか?
「事実を知りたい」という遺族の願いの多くは、学校の教職員に対して、亡くなった子どもの事実経過をふまえつつ、「(あのとき)なぜ、どういう理由(わけ)で、そうするの?(そうしたの?)」という形をとる。
また、なぜ遺族がこれまで民事・刑事の訴訟にこだわり、国家賠償法の壁を厚い壁を越えようとするのか? そうでもしなければ、最も遺族が問いかけ、理由を聴きたい人々が「呼びかけ」に応じないからでは?
第三者委員会の良し悪しは、この遺族からの「呼びかけ」をどこまで意識するかにかかっている。
3:また、第三者委員会は、誰に対して、何について「応答する責任」を有するのか?
亡くなった子どもの名誉回復など、子どもの人権の救済・擁護のため。
遺族などの知る権利への対応のため。
他の子ども・保護者・地域住民などへの事情説明、今後の対応のため。
同様の事故・事件の再発防止のため。
教職員の処分や訴訟対応のため。
4:そして、誰に対して、何について「応答する責任」があると考えるのかによって、たとえば第三者委員会が行う調査のあり方や、検証結果の集約・整理方法、再発防止策の提案等は異なるのでは?
例えば個々の第三者委員会において、「遺族はどこまで「応答すべき相手」だと意識されているのか?」「亡くなった子どもの存在はどこまで意識されているのか?」ということ。
特に、自分たちの名前すら示さない第三者委員会は、誰とどのように向き合いたいのか?
また、第三者委員会が自らを「責任を担う主体」として、学校・教育行政に対応するためには、どのような位置に立ち、何を調査し、検証する必要があるのか?
さらに、第三者委員会として、そのことを突き詰めて考えてみたことがあるのか?
5:そもそも第三者委員会は、事実経過の検証作業等を通じて、誰と、どのように向き合い、何を語りたい(説明したい)のか?
そもそも、それぞれの第三者委員会報告書は、誰が、誰に宛てて書いているのか?
たとえば遺族、教職員、教育行政関係者、研究者、マスコミ、住民、裁判官等々、数多くの人びとの眼に触れることを意識する文書になり得ているのか?
自分たちに問われていることが何なのかがよくわかっていない、あるいは、読み手に伝えたいメッセージのはっきりしない第三者委員会報告書は、おそらく読むに堪えない。
一方、自分たちに問われていることが何なのかをよく自覚した第三者委員会報告書は、そのスジに沿って、事実関係の整理や自らの見解・再発防止策の提示等ができているはずである。(おそらく、同様のことは民事・刑事の裁判の判決にも言えることでは?)
6:今後しばらくの間、「第三者委員会報告書の検証」という形で、遺族(当事者)とともに、新たな学校事故・事件研究の仕事を立ち上げる必要があるだろう、ということ
今後、しばらくの間、「第三者委員会報告書の鑑定人」が遺族サイドには必要。→「出しっぱなし」にはさせない、ということ。
遺族の側から、「第三者委員会報告書」という形で発せられた学校・教育行政側の声に、適切な「応答」をする必要性があるのではないか?
※当面「鑑定人」を私(住友)はやるつもりだが・・・。
7:最後に
起きてしまった悲しい事故・事件に関する遺族の願いと、亡くなった子どもの事実経過から浮かび上がる思いは、学校・教育行政に「変わってほしい」と願う「呼びかけ」といえるものである。特に事実経過から浮かび上がる子どもの姿は、学校・教育行政への「命がけの問いかけ」といってよい。
その「呼びかけ」「命がけの問いかけ」に責任を持って応答する主体を、学校・教育行政や第三者委員会に入る関連領域の専門家が適切に立ち上げることができるかどうか?
調査や経過の検証作業、説明や再発防止策の検討・実施など一連の「事後対応」のあり方は、そこで決まってくるのでは?
そしてこの「呼びかけ」「命がけの問いかけ」に適切に応答できるような学校・教育行政、あるいは関連領域の専門家であれば、おそらく、日頃から子どもたちの呼びかけ、命がけの問いかけにも誠実に応答するのではなかろうか。
遺族からの呼びかけに応答することは、学校・教育行政および関連領域の専門家が、子どもからの呼びかけ、命がけの問いかけに誠実に応答する力を取り戻すためにも重要である。
以上