神戸市総合教育会議が10月17日付けで出した「今後の方向性」に「対案」を出してみる
上記は去年の10月に、神戸の教員間いじめ問題が発覚して間もない頃にブログに書いた記事です。この記事もあわせて読んでいただいた上で、これから今日のブログに書くことを参考にしてください。
いまは、新型コロナウイルス感染症への対応が何かと気になってしかたがない状況ですね。この神戸の教員間いじめの問題についても、先月末に弁護士主体の調査チームの報告書が出て、加害教員らへの懲戒処分が行われましたが…。でも、私もなんだかコロナのことが気になったので、こちらの神戸の教員間いじめ問題については、ひとまず「落ち着いてからコメントを」ということにしていました。そのことは、このブログにも書いたとおりです。
ですが昨日、加害教員らへの刑事処分に関して、重要な動きがありました。本来は兵庫県警の捜査がひと段落ついて、加害教員らが書類送検された段階からコメントしないといけないわけですが・・・。ちょうど昨日、神戸地検が「起訴猶予」という判断を示したので、そのタイミングで一度、コメントをしておきます。
以下、まずは、この事件を続けて追っている神戸新聞の記事から、この「起訴猶予」に関する記事を紹介しておきます。
東須磨小・教員間暴行 加害教諭の起訴猶予、保護者「疑問拭いきれず」(神戸新聞NEXT 2020年3月28日)
https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202003/0013228346.shtml
東須磨小・教員間暴行 加害元教諭ら4人起訴猶予 (神戸新聞NEXT 2020年3月27日)
https://www.kobe-np.co.jp/rentoku/eastsuma-kyoin/202003/0013228336.shtml
教員間暴行の加害教員4人、起訴されない? 兵庫県警内でも意見割れる (神戸新聞NEXT 2028年3月12日)
https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202003/0013186515.shtml
これらの記事を読みまして、私の方でいま、コメントできることは、以下のとおりです。これらの記事については、昨日~今日にかけてツイッターでつぶやいたことを整理して、以下の内容をフェイスブックに転載しました。それをこちらのブログにも転載して、あらためて加筆しておきます。
○以下、フェイスブックに書いたことからの転載
ほんと、事件発覚直後から私が言い続けてきたことにやっと気づいたか、神戸新聞の記者とそこに出てくる識者たち…みたいな記事ですね。だから法的対応はその限りでしか課題を解決しない、最初から弁護士だけでなく、教育や心理の専門家入れて調査しろと言ってきたんです、私…。
それにしても、やはり、起訴猶予でしたね。こうなりそうな予感は当初からしていました。警察・検察は懲戒処分等の「社会的制裁」を見て刑事事件の方の対応を決めることがありますので。
神戸の教員間いじめの問題については、行政は懲戒処分を行ったし、警察・検察は「起訴猶予」という判断を示したので、残るは民事での賠償等の問題になるでしょうか。法的には着々と問題解決が進んでいるようですが、でも再発防止や学校再建の課題は今後、どうなるの? そこが全然進んでいないような…。
法的な問題解決ばかりが着々とすすんでいるけど、肝心の神戸の学校や教委の「組織風土」の改善や再発防止策の実施、さらには当該の小学校の「再建」といった諸課題は、いよいよこれから本格的な取り組みの時期を迎えるわけですよ。でも、誰が何をするんでしょうかね?
「一日も早く処分しろ、懲戒免職だ」「警察につき出せ」等の声が高まり、学校や教委バッシングも起こったのがこの神戸の教員間いじめ問題。なおかつそれへの対応を優先するかのように、弁護士らの調査が行われるなど、法的な問題解決ばかりが先行してきました。でも、それでほんとうによかったのかな?
※ここから先は、ブログ記事にするにあたっての「追記」部分です。
上記の転載部分にも書きましたが、この神戸の教員間いじめの問題では、去年10月の事件発覚以来、「一日も早く処分しろ、懲戒免職だ」「警察につき出せ」等の声が高まりました。また、その流れの中で「加害教員らを教壇に立たすな、給料も払いたくない」という声も高まり、神戸市長や市教委は市議会に大急ぎで分限処分に関する条例改正を行い、去年10月末、加害教員の分限休職と給与差し止めの処分も行われました。
ですが、その際の分限処分実施に関する外部有識者らによる審議会でも、この件が刑事事件になったときには、それほど大きな処分はでないのではないか・・・という声がでていたように記憶しています(不確かな記憶で申し訳ありません)。
刑事事件としてみた場合のこの「教員間いじめ」の問題は、実は「それほど重大な問題としては扱われない」ということ。それは早い段階から、わかる方にはわかっていた話のように思うのです。なので、去年の秋ごろ頃から、マスコミは、ほんとうはそのことを指摘しておかないといけなかったように思うのですが。
それから、この「教員間いじめ」問題に限らず、子どもに関することでも、なにかと学校での事件が起きると「日本は法治国家だ」「法に基づいて厳罰を」という声がよくあがります。
でも「法治国家」である以上、この日本社会である人に刑罰を科すにあたっては「推定無罪」の原則に立っての対応が必要になりますし、また、被疑者にはそれ相応の法的な弁護権(防御権)が保障されてしかるべきだということになります。だからこそ、警察や検察は捜査のプロセスで確実に「有罪」に持ち込めるような証拠等々を入手し、起訴できるかどうか、起訴後は「有罪」まで持ち込めるかどうかまで慎重に考えて対応するわけです。なので、この点は、たとえ「こんな人たち、許すまじ。厳罰を」と求める立場の人々でも、私としては、その「法治国家」としてのルールは理解していただきたいところです。
さらに、「子どもにいじめをしてはいけないと教えるのが教師で、その教師としてあるまじき行為をしたのだから、厳罰を」というような主張をされる方も、この件ではいらっしゃるかと思います。
「教師としての面(つら)汚し」という意味で、「体面汚辱」といえばいいのでしょうか。もしそういう意識だとすると、明治期の小学校令にあったことばと意識の復活、つまり、私としては、明治時代に日本に近代学校が成立して以来の「教師聖職論」や「師表」としての教師像が、この件では復活しているような印象を受けますね。(参考までに、1900年(明治33年)の小学校令第48条の条文を書いておきます。「第四十八条 市町村立小学校長及教員職務上ノ義務ニ違背シ若ハ職務ヲ怠リタルトキ又ハ職務ノ内外ヲ問ハス体面ヲ汚辱スルノ所為アリタルトキハ府県知事ニ於テ懲戒処分ヲ行フ其ノ処分ハ譴責、減俸及免職トス」)
もう少しついでにいうと、私はこの「教師聖職論」や「師表」としての教師像については、先ほど「小学校令」ということばを出しましたが、「いったい、いつの時代の教職に対する価値意識? 教職観なの?」と思ってしまいます。
なにしろ、この「教師聖職論」や「師表」としての教師像は、日本の近代公教育における教員処分の歴史を研究した岡村達雄編著『日本近代公教育の支配装置(改訂版)』(社会評論社、2003年)で、ちょうど明治期あたりで、私たちの研究グループが論じたこととも重なります。そのくらい「古い」教職に対する価値観なんですよね。まあ、教育史的に言えば、その価値観は強まったり、弱まったりしてきたのですが・・・(教員の労働組合運動などが一定の勢力を持っている時期は、この「教師聖職論」や「師表」としての教師像は弱まります)。
私は当初から、この神戸の教員間いじめの問題に関する法的な対応については、「地方公務員法などの現行法の枠組みのもとで、加害教員らの処分は適切に行えばそれでいい」と思ってきましたが…。それは、実は「加害教員許すまじ」という声のなかに現れた人々の意識が「師表」としての教師像にもとづいているなど、「いったい、いつの時代の意識なの?」と思うくらい「古すぎる」と思ってきたからです。
まあ、そういう「師表」としての教師像を、この21世紀に復活させたいと思うような勢力がいま、日本国内でうごめいているのかもしれませんが…。
でも、かつて教員に滅私奉公を強いたり、あるいは「御真影」と「教育勅語」を守るために、火事になった校舎に飛びこませたような、そういう価値観でもありますからね。この「師表」としての教師像って…。扱い方を間違えると、これはかなり危ない教育に対する価値観、教師像でもあるわけですよ。
ちなみに一応、いまは公立学校教職員の懲戒処分について、たとえば地方公務員法上の服務や懲戒の規定(たとえば「信用失墜行為」など)や、関連する人事院規則や各自治体の職員人事に関するルール・慣例があります。なので、まずは教職員の起こした数々の不祥事とこれに関する懲戒処分等々については、「そういう現行の公務員法制に照らしてどうなのか?」を論じてほしいところですね。その点は、この「教員間いじめ」の問題についても同様です。ほんと、いつまで「師表」としての教師像にこだわっているのか、今は21世紀だぞ…と言いたくなってしまいます。
ちなみに、この「教師聖職論」や「師表」としての教師像に基づいて、教員が行った「暴行」等の事件については重罰を科すというのは、今度は「法の下の平等」という点に照らして、加害教員を弁護する側から「他の一般市民の刑事処分と比較して、重すぎやしないか?」という話がでてくるでしょうね。
あくまでもこの神戸の教員間いじめの問題も、加害教員らは「暴行」等の事件の「被告」として、しかも「初犯」のケースとして警察・検察、そして起訴された場合は裁判所も、刑事事件として裁判をすすめて、処分の中身を考えることになると思います。もちろん一定の世論の動向等は加味した判断を示すでしょうけど…。でも、たとえば「一般市民なら懲戒処分等の事情を考慮して、社会的制裁を受けたとして起訴猶予にする」ケースであれば、やはり「教員の場合も起訴猶予」と言うケースは当然でてくるでしょう。
そして、これはくり返しこのブログで言ってきたことですが…。
「どれだけ刑事・民事の法的な手続きをとろうが、教育行政による懲戒処分が行われようが、当該の学校の再建や、類似のケースの再発防止策の実施には、直接的なつながりはない。それはそれで、教育学や心理学・精神医学等の近接領域の観点から、きっちりと何が課題でどのような防止策が必要なのかを、法的な観点からの議論とは別に論じなければいけない」ということ。そのことも、もうそろそろ認識していただきたいところです。
なにしろ、もちろん「裁判で訴えられるから」とか「懲戒処分がでるから」という理由で「悪いことはやめておこう」という「善意」の人もいるでしょうけど…。でも「今度は訴えられないようにしよう」とか「処分されない程度にやろう」とか、あるいは「ばれないようにやろう」と姑息な工作を行うケースもありますからね。
なので、類似の問題を起こさないように、あるいは起きても適切な対応を行うように、たとえば実際に現場に居る人々や行政の担当者、さらには行政上層部の意識を変え、具体的なスキルを磨く必要があるのか。また、そのためにどういう条件・環境を整えるのか。そのことについて、法的な観点からの議論とは別に、教育の実践的な議論とそのための条件整備・環境設定的な議論とともにやらなければいけない課題があるわけです。「いくら法的に緻密な議論をしてもなあ、ここができていないとねぇ…」というところでしょうか。
このような次第で、法的な枠組みでの対応には、もちろん、それ相応の可能性もありますが、同時に今の法的な対応の枠組みが成立してきた歴史的経過や、その枠組みのもとで実際に刑事司法がどのように運用されてきたのかという歴史的経過に伴って、それ相応の限界もあります。同じことは、教育行政による教職員への懲戒処分にも言えることです。
刑事司法や教育行政の外側に居る人々が「あんな教員を許せない」と憤りを感じて、「法的に対応してさっさと処分しろ」とおっしゃるのは、個人の自由です。そのことは誰にも止められません。
でも、その「法的な対応」にも可能性とともに限界があることくらいは、「もうそろそろ、みなさん、認識してくださいよ」というところでしょうか。
そして、その限界を変えていくことには、何年にもわたる時間がかかりますし、また、その「変えていきたい」と思う方向性が「はたして、ほんとうに妥当なのか?」と考えることも大事です。
ちなみに、21世紀の今、19世紀(=明治時代)的な価値観を復活させるような方向に向かうのならば、やっぱり私は「その方向、ほんとうにいいの?」と疑問を出し続けますね。
ということで、長々と書きましたが、ひとまずコメントを終えておきます。