今回はケータイからの投稿ではなく、久々にパソコンの画面に向かっての投稿になります。
この数日の試験的な投稿で、ケータイを使えばこのブログを「開店休業」状態ではなく、なんとか日々、何か書き込んで、動かしていくことが可能だということはわかりました。だから今後もひきつづき、ケータイによる投稿は繰り返すことになると思いますし、いったんケータイで入稿して、あとで修正ということもあると思います。
しかし、やはりケータイの画面に向かって入力できることには限りがあります。たとえば、新聞やテレビなどを見て思いついたような「速報」的なことだとか、「すぐに伝えたい感想・ひとことコメント」みたいなことであればケータイでもいけるのですが、「じっくりと考えて、訴えたいこと」だとか、「言葉を吟味して、議論を深めたいこと」を発信するのには、ケータイは向いていません。なにしろ、あの小さなケータイ画面をスクロールしながら入力できる文字数と、その入力に耐えられる気力と体力(特に指先の力)には限界がありますから。
そんなわけで、今後はケータイでの投稿とパソコンからの投稿の両方を、目的にあわせて上手に使い分けていきたいと思います。その点はどうか、事情をご理解ください。
さて、最近の私は、子どもの人権と教育・福祉というテーマや、前から書いているような「課題」のある子ども・若者の自立支援というテーマ、あるいは、人権教育や解放教育・同和教育(この場合は「保育」も含む)というテーマなどについて、「今こそ物事を深く考え、言葉を吟味し、議論を深めたい」と思っています。
たとえば先日もケータイから自己批判や反省もこめて投稿しましたが、子どもの権利条約(児童の権利に関する条約)にある「教育への権利」(28条)に沿って、中等教育段階での子どもの就学保障に向けて、たとえば授業料不徴収や減免制度・奨学金制度の拡大などについて、自分がこれまでどれだけのことを言ってきたかというと、ほんとうに心もとない。目の前に経済的な困難を抱えた子どもや家庭がいるにもかかわらず、こうした検討課題について、今まで、自分にどれだけのことができたのだろうか・・・・と思っています。
あるいは昨今、人権教育系の研究者のなかに、「社会権的教育権」ということを主張されている方がいるのですが、その「社会権的教育権」という概念の中身はなんなのか。そこが過去の議論をふまえて論じられているのかどうか、とても疑問に思うのです。
たとえば、これまでの日本の教育学において、「教育権」については実にさまざまな議論があったはずです。それこそ、私の書棚には今、1976年に出版された『教育権(教育学研究全集第6巻)』(真野宮雄編著、第一法規出版)という本があります。この本には、私の大学院時代の指導教授だった故・岡村達雄先生の若かりし頃の論文も入っています。
そしてなによりも、この本の第4章「現在の教育問題と『教育権』」の「一 社会的弱者と教育権」という節(高倉翔氏執筆)には、「教育福祉の問題―公教育における差別の現実―」という項目があります。そこでは、短い文章ではありますが、差別の問題、障害者の教育権保障の問題、生活保護世帯などの子どもの貧困をめぐる諸問題、男女差別の問題、沖縄やアイヌの教育の問題などが取り上げられているのです。
ここにあげられている諸課題は、今の「人権教育」が論じている諸課題と、どこが異なっているのでしょうか。もちろん、30年以上も前にあった話は「問題提起」だけで、「あれから、いろんな取り組みや議論が深まったのだ」ということは可能だし、実際そうなのだろうと思うのです。ですが、今、あえて「社会権的教育権」論を提起するのであれば、この30年間のさまざまな取り組みや議論のなかで、「では、何が深まって、何がまだ未解決の課題として残っているのか?」という整理を行うことがまずは必要なようにも思うのです。
そうした過去の議論の成果と課題の検討を踏まえつつ、今の子どもの現実を前に、あらためて「社会権的教育権」ということを提起していく理由はなんなのか。また、「社会権的教育権」論を提起して、そこで保障されるべき「教育」の中身とはなんなのか。それは従来、取組まれてきたこととどこでどうつながり、どこでどう断絶するものなのか、等々。
・・・・こんなふうに、今、提案されているような話を見ても、私などは「今こそ物事を深く考え、言葉を吟味し、議論を深めたい」という風に思うのです。そして、このことこそ私たち研究者が今、担うべき仕事なのではないか・・・・とすら、思ってしまうわけです。
今の子どもや若者、保護者、地域で活動している人々、学校の教員や社会教育施設の職員、教育行政や児童福祉行政の職員のみなさんが置かれている現実を前に、過去の文献をもう一度読み直したり、これまでの施策や実践・運動の成果と課題を明らかにすること。あるいは、今の文献で語られていることの妥当性を検証したり、はやりの言葉を吟味したり、そこから何か施策や実践・運動をよりよくするための提案をしていくこと。こういったことを重要な「任務」として引き受けているのが私たち研究者だろうし、そのために「学問の自由」の保障など、私たちの立場にはいろんな配慮が行われているのだろうと思うのです。
今後も引き続き、過去の文献と今の議論とを比べながら、やや辛口なコメントを含め、思いつくことをこんな感じで、パソコンから、あるいはケータイから発信していきたいと思います。また、その辛口なコメントは、今までの自分の研究や実践活動にも及ぶことがあるかと思います。行きつ戻りつするような形になるかと思いますが、今後ともどうぞよろしくお願いします。
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